冬の煙たい匂い

 

f:id:yokase_oha:20171119182633j:image

 

 朝、すうっと冷たい空気を吸うと、心のなかまできれいになった気がする。はぁっと吐き出される白い息が、宙に消えていくのを眺めながら、煙草の煙に似ているなと思った。隣に誰かのぬくもりを感じる夜は、いつだって甘えてしまう。その人の気持ちに甘えてしまう。キスをしたし触れ合ったけど、それだけ。私たちの関係は絶対に変わらないし、セフレという存在にもならない。

 わかっている。ひとりに恋をしてしまったとして、その人とお別れをしたとき、どうしようもない苦しさと辛さで自分がどうにかなってしまいそうになる感覚。経験をしたことがあるからこそ、守りに入っているのだと私だってわかっているよ。恋人だって、恋人という枠に当てはめたから特別視しているけど、本当は彼も、彼も、彼のことだって私は気になっていて、気にしている。好きな人が複数人いる、といえば軽く思われるかもしれないけど、実際そうなんだ。

 でも、そうでもしないと、私は自分を守れない。

 誰かと幸せになったり、恋をしたり、一途に思い続けたりすることは、怖いことだ。

 恋愛に臆病になっているの、と自問自答して、思わず笑ってしまった。そんな可愛いものじゃない。ただ寂しいだけ。自分の周りから人が去っていくことに耐えられないだけ。そして男たちに抱きしめられているとき、頭をかすめるのは「これが母だったらよかったのに」という、どうしようもない幼心。そのときだけ垣間見える自分の幼稚さに嫌気がさすし、自分を痛めつけることに対してコントロールができないことにも悩むけど、実際この年齢までなんとか生き続けているから、私はぜんぜん大丈夫なのだろう。

 そうやって自分で自分を愛してあげないと、私を抱きしめてくれる人はいないから。

 自分の愚かさを甘やかして、不幸に酔って、寂しい時間をごまかして、そうしながら私は私らしく生きていく。自分の芯がぶれて、悪いものに影響をされて、後ろを振り返りながらも。

 

「人生、なんとかなるねん」

「ほんまに、ゆうてる?」

「うん。だって、今こうやって平和やん」

「平和やな」

 

 

愛はないよ他意はあるけど

 

  沈みたくなる気持ちを沼からすくって出勤するけど、張り付いた笑顔の自分が気持ち悪くて、なんだか自分じゃないみたいで苦しい。だけど、仕事でプライベートそのままを惜しみなく表に出す人間の方が珍しいと思うから、まだ我慢しようと思える。

  ホットミルクに蜂蜜をいれて、スプーンでくるくるかき混ぜるとき、ほんの少しだけど朝にできた空白の時間にホッとする。外を見て「寒そうだ」とかまだ便箋を切っていない封筒を眺めて「冬物のセールか」とか思って時間をつぶす。気づけば11月も半ばを迎えていて、なんだかいっきに冬が迫っていた。訪れる、なんて優しいものじゃない。私の時間は周りの時間よりゆっくりなのだ。そう簡単に、切り替えられるわけじゃない。

  朝の短い時間に本を読む。少しずつ読む方がいい。一気に読むと頭の中がいっぱいになって、すぐに内容を忘れてしまう。忘れてしまったものは、もう読まない。どうせまた思い出せなくなるから。

 

f:id:yokase_oha:20171116193403j:image

  お手紙と一緒にこれが届いていて、とても嬉しかった。可愛いなって。とてもツヤツヤしていて、傷がなくて、よく見ると模様が違っている。お風呂に混ぜた可愛い入浴剤みたいな模様だ。これを耳にして外に出る自分を想像する。隣には、好きな人がいて……。恋人は気づいてくれるだろうか。可愛いと言ってくれるだろうか。

 

創作 「心のすきま」⑦

 食卓を囲んでいるとき、不思議と吐いてしまいたいという気持ちは生まれなかった。美也子の料理みたい、と思った。自分で作りたくなくて、インスタントのものを食べていたけど、胃の中がかき回される感覚がしてすぐに吐いた。それからは何も食べたくなくて、酒だけ飲んでいた。美也子がいなければ、本当に餓死していたかもしれない。いま以上に痩せてガリガリな自分の死体を想像して、気分が萎えた。

 淡島は食べ方がとても上品できれいだった。繊細、というか本当に命をいただいています、という感謝の気持ちが伝わってくる。きちんと「いただきます」「ごちそうさま」を言葉にしていたので、私もそれにならった。

 食器を洗おうかと申し出たが、座って休んでいてと言われたので、そうさせてもらった。男の人と食事をするのが久しぶりだったので、気を遣わなかったわけじゃない。それにいつもより多く胃の中におさめたので、お腹が苦しかった。

「ここの家の人たちは、どこに行ってしまったの」

「亡くなったんだ。叔父さんは二年前に病気で。癌だった。叔母さんは行方不明」

「行方不明?」

「どこかで死んでいると思う。叔父さんが亡くなって、気持ちが落ち込んでいたから。俺のことも目に入っていなかったみたいだし」

 失踪して、自殺した。淡島はそう思っているようだった。

「俺と両親は本当に折り合いが悪かった。どちらも教師で、頭がお堅いというか……小さい頃からずっと反発してばかりで、高校を卒業してここに住まわせてもらうようになってから、もう何年も会ってない。……ああ、叔父さんの葬儀とかで会ったな。そういえば」

 関心のない口ぶりだった。この人にとって、叔父さん夫婦のほうが家族だったのだろう。

 ひとりで住むには広すぎる家。微かに残っている、家庭的なぬくもり。私が使っている、行方不明になった叔母さんの部屋。

「俺は、自分のしたいことをして、それなりに評価をもらっている。仕事もある。それに叔父さんが遺してくれた金で生活している」

 話を聞きながら、私は胸につっかかる違和感を飲み込んだ。

 美也子から親戚に行方不明者がいるなんて話を聞いたことがなかった。彼女は親戚付き合いが多いわけでもなかったから、興味を持っていないだけかもしれない。

「私、きみに何も返せないのよ」

 貯金もないのよ。体もこんなにガリガリだし、抱き心地も悪いでしょうよ。

 淡島は目を細めて、赤子を見るような表情で私を見つめた。

「返さなくていい。あんたは、あんたのことだけ考えていればいい」

「どうしてそんなに優しいの」

「あんたと俺が似ているからだよ」

「どこが」

「ちょっと説明できない。でも、じきにわかるよ。俺とあんたは似ている」

 言って、淡島はまた子どもみたいに笑う。

 切れ長の目が糸のように細くなる。どうしよう。心地いい。

 

 

 

 初めて夜を迎える部屋だというのに、自分のアパートのときよりもぐっすり眠れた。なにかに守られているような気がして、それはきっと、淡島の叔母さんの幽霊だと思った。行方不明だから、死んでいるとはまだ限らないけれど、淡島が死んでいると言うのだから、きっとこの世にはもういないのだろう。

 でも怖い感じはしない。不気味に思わない。

 健吾のことを思って泣いてばかりだったころ、彼はどうして私の傍にいてくれないのか、そんな理不尽な思いすら抱いていた。彼のいない時間は恐ろしくゆっくりで、だけど周りは慌ただしく過ぎていって、いつの間にか気づいたら私は私を失っていた。

 左腕の傷や痣を見ても、淡島は何も言わなかった。美也子から色々と話を聞いているのかもしれないけど、彼から私に対しての質問はなく、本当に「わかっている」ような感じだった。私のすべてを。

──なんてこと、あるわけないじゃない。

 朝を迎えているけど、布団から出ないまま、じっと考える。時刻は、まだ6時過ぎだった。

 淡島が私の全部を知っているなんてこと、ありえない。私ですら私のことをわかってあげられないのだから。感情を上手にコントロールできない。外に出て、車が通るたびに目眩がした。クラクションの音も、ノイズのように聞こえて、今までどうやって生きてきたのかわからなくなった。というか、健吾がいたから、今まで生きてこられたんじゃないかと思うほどだった。

 健吾、健吾、健吾……

 あ、思い出さないようにしないと、ほら、また、

 呼吸とか、耳鳴りとか、いろいろ。

 わからなくなるから。

 …………ああ、もうほら、

 わからなくなるから

「柊花」

 健吾ではない声がした。だけど、落ち着く声だった。

 ゆっくりと、手が、私の額を撫でている。温かい手だった。

「ごめん。光が、苦手だったね」

 淡島は辛そうな顔をして、私を見下ろしていた。私の苦手なこと、どうして知っているのだろう。もしかして本当に私のこと、ぜんぶ知っているのだろうか。浅かった呼吸がだんだん落ち着いてきて、やっと目の焦点が合う。頭と手足が痺れていた。淡島が見下ろしているから、視界が暗い。

「本当だった」

「なにが」

「私を、助けてくれた」

 そのためにいる、と淡島が呟く。

 久しぶりに健吾以外の人の腕のなかで泣いた朝だった。

煙たい、夕方

f:id:yokase_oha:20171110192330j:image

 

  悲しいけれど、私にはどうしても耐えられない時間がある。それはいつやってくるのか、どういうときにやってくるのか、本当によくわからない。自分の体と心と頭がおかしくなって、勝手に泣いたりいじけたり笑ったり、何かと忙しい。忙しいのに自分がついていけないから、そのまま消化できない辛さが次の日に響いてくる。誰も私を見ないでほしい。そんなことを思っているのに気にかけないで。私は、私が必要だと思う人間に愛されたいだけだから、他は正直、どうでもいいんだよ。

  愛されたいけど、私みたいな人間はいい人を気取っている本物のクズだから、愛されることはないと思う。何かと人間に優しくあたっておいて、実はまったくなんの感情も抱いていないことが多い。それに心を許して近づいてきたり、知り合いになりたがったりする人間がいるけれど、私は彼らの欲しがってる言葉を選んでいるだけだ。私の場合、「みんな好きで、みんな嫌い」だからしょうがない。愛されないでいいから、ちょうどいい距離を保って、私に振り回されてほしい。

 

  頭が痛くて起き上がれず、あわよくば全部吐いてしまいたい衝動に駆られて、殴られるような痛さに耐えて家に帰ると、不思議とましになった。あんなに苦しかったのに、嘘だったのかな。仕事だったから疲れていたのかな。人より全然動いていないし、働いてもいないのに、疲れているだなんて。気にすることない、と言ってくれる人がほとんどだけど、私はあなたたちに何も返せない。こんなに大事にしてくれているのに、返せるものが何もない。

  できることだけやればいい。それだけでいいと言ってくれたので、私はどこか違和感を抱えたまま職場に行く。そこに行くだけでいい。私の居場所は絶対にあるよ。大丈夫。

創作 「心のすきま」⑥

 

 いつのまにか眠ってしまったらしい。

 時計がなかったので、窓の外を覗き見た。夕暮れだった。

 自分の体に布団がかけられていた。淡島がかけてくれたのか。彼はどこに行ったんだろう。耳を澄ましても、さっきまでの料理の音は聴こえない。料理ができて私を呼びに来たけど、眠っていたので声をかけないでいてくれたのだろうか。しばらくボーッとしていると、この部屋に私だけが取り残されている感覚がして、少しだけ胸がざわつく。

 そうだ。淡島の家にいるんだ。ここで寝たり起きたりするのだ、これから。

 色々と話さなければならないと思った。淡島と。今は何も考えたくないと思っても、そうはいかないだろう。よくわからない年下の男にくっついてきてしまって、彼が何者かもよくわからないまま暮らしていくのは、人生を甘く考えすぎだ。

 だんだんと頭がはっきりしてきて、大丈夫なのか私と自問自答する。

 28歳でヒモ女のようなこの現状に、今度は押しつぶされそうになってしまいそうになる。ヒモ女のような……というか、まるっきりヒモ女ではないか。甘えてしまってもいい相手なのかどうか、淡島と話さなきゃ……。

 部屋を出て、襖が開いているアトリエを覗いたけれど、誰もいなかった。そっと歩いても軋んでしまう廊下を渡り、さっきまで淡島が料理をしていただろう台所に向かう。テーブルの上にはラップをしたひじきの煮物と、小さい鍋の中に冷えたみそ汁があった。私のために用意されている料理。子どもの頃を思い出す。父の作った野菜で料理上手な母が腕をふるい、食卓にはたくさんの小皿に色とりどりのおかずが乗っていた。「柊花ちゃんちって、本当に体にいいものが並んでいるよね」と、止まりにきた友だちがわくわくした表情で言っていた。野菜の仕送りを断ったのは、一人暮らしではあの量を食べきれないことと、料理をすることが面倒になってしまったことと、健吾と食べる外食のほうが美味しかったからだ。

「起きたの」

 声がして振り返ると、淡島が立っていた。煙草の匂いが微かにした。

「よく寝ていたから起こさなかったけど。昼間は暑くても、夜は冷えるから。勝手に部屋に入らせてもらった」

「布団、ありがとう。それに食事も作ってくれたのに」

「それはいい。温める」

「私、本当にきみにお世話になっていいの?」

 淡島は何を今さらといった顔をして、冷蔵庫から麦茶を取り出し、ペットボトルからそれを直接飲んだ。

「あんた、俺に誘拐されたようなものだから。べつにいいんだよ」

「美也子から私の何をきいたのかわからないけど、私はきみのことを知らなさすぎるから」

「俺に対しての不信感で胸がいっぱい?」

「不信感ではないのよ。ただ……きみは私のことを、美也子からきいている情報以上に、よく知っているような気がするの」

 椅子に座ると、コーヒーを出してくれた。向かい合わせの椅子に座り、淡島は子どものような瞳で私を見つめた。どこか期待しているような目線。期待をしているとしたら、一体何に?

「そりゃ…俺は芸術家だからあんたのことを想像したり、客観的に見たあんたの印象をイメージしてこういう人間なんだろうなって思ったりするさ」

「私は、きみの目にどういうふうに映っているの?」

 コーヒーを飲んでも喉が渇いていた。痩せて目の下にクマができている、アラサー女は、この若い男にどういうふうに思われているのか。

「きれいだよ」

 照れることも隠すこともなく、嘘ではないかと疑問を持つ間もなく、即答で彼は答えた。

「きれいだと思う」

 彼の瞳から子どもっぽさは失われていた。

うさぎの目

 

 セックスの後の静かな時間が好きだ。体は疲れていて、息も少し浅いのに、隣の体温の心地よさとか動くと触れる冷たい足とか、寝返りをうつとき抱きしめられるあの、たまらない幸福感。それが好きだから愛する男とのセックスというのはやめられない。互いが互いのために、あるいは己のために求め合うことは、本当に動物的で、裏表がない。誰かに会いたいと思えることはいいことだ。心地よい辛さがちょうどいい。

 

f:id:yokase_oha:20171104210707j:image

 

 友だちとカフェで「昔はこうだったね」「懐かしいね」と思い出をひとつずつ語っていく。それらはもう戻ってこない時間だけど、確かに存在した時間で、穏やかで鮮明でキラキラしたものだった。あの頃は……と語るけど、まだ2年とか3年とかしか経っていない。まだ人生の未熟者なんだよね。社会人になって2年目なんだよね。と、友だちとぼんやり語った。

 その友だちとは幼稚園、高校、短大が同じで、いわば3歳のころからの知り合いで、もう19年の付き合いになる。かつて私が住んでいた場所(その子の実家からとても近い)に行き、小さな公園を見て、そこで飼われているウサギに挨拶をした。絶対に、当時のウサギではなく、新しく飼育されているウサギなんだろうけど、なんだかあの頃のウサギのままの気がして「久しぶり」と声をかけた。大きな目をぱちくりさせて、ウサギは私をじっと見ていた。

 

 煙草を吸う私の姿は見たくないの、と彼女は言って車の中に引っ込んでしまった。友だちの忘れ物はすっかり吸い終わってしまって、自分用の煙草を買った。休日だけ吸うことにした。ああ、これも懐かしい味だと思いながら吸った。

 

 

 

 

嫌なことぜんぶ

f:id:yokase_oha:20171103185906j:image

 

 この子がいれば、私はどんな嫌なことも忘れられると思う。というぐらい、このチョコを愛している。ほんのりお酒の味と風味がして、なんだか本当に、ひとかけらだけで私の時間がキラキラする。

 嫌なことぜんぶ忘れられたらいいのにと、毎日思うけど、そうしたら楽しいこともぜんぶつまらなくなっちゃうのかしらと思い、そんな馬鹿な想像を振り切る。楽しいことがないという人がいるけれど、それって新鮮なことがないからだと思う。自分にとって「らしくない」ことを思い切ってしてみればいいのだ。ちょっと避けていた部分に触れてみたり、興味のなかったことに一歩踏み出したり、胸の中に詰め込んでいる思いを文章に起こしたり。

 だけどわかってもいる。

 そういう新しいことを前にして足がすくむんだってことも。苦しくて辛くて、ひとりで泣いてしまう夜もあるし、明日が見えなくて絶望っていう二文字が頭を巡り巡っていて、本当にどうして自分は存在しているのか、自分を見てくれている人間なんていないんじゃないのか、そんな暗い気持ちが重くののしかかっている。そして、だいたいそんな気持ちのときはろくなことを考えやしない。相手に声をかけてほしいくせに、こんな自分を見られたくないし、抱きしめてほしいのに、そんな相手なんていない。くすんだ時間が闇になってすぐそこまで迫ってきて、息がしづらくなる、あの瞬間。誰とも会いたくないのに、誰かに認めてほしいという矛盾がずっと攻め合っていて、もう消えちゃいたいという衝動に駆られる。

 そうやって増えていった傷や痣を、もう一人の私が沈んだ表情で眺めている。

 自分を傷つけずに済んだかもしれないのに。どうして脆いの。楽しいことをしていても、どこかで歪んでいる自分がいる。苦しんだり楽しんだり笑ったり泣いたりしながら、夜を重ねて、私は思い知る。なんて浮き沈みの多い、穏やかで激しい人生なんだと。

 

「このチョコ好き?」

「好きやけど。アルフォートの、ミルクっぽいやつあるやん。あれが好きやねん」

「じゃあ、このチョコはいらん?」

「ほしい」