創作 「心のすきま」⑪

「柊花は大丈夫なの?」

 電話越しの美也子さんはとても不安げだった。俺とのことが知られたとメールをすると、すぐに電話がかかってきた。用事があって出られなかったので、気づいたときには着信が7件もきていた。

 柊花の部屋の電気が消えたことを確認して、寒空のした美也子さんと電話をする。二か月ぶりだった。

「恐ろしいほど冷静だったよ。俺のほうが、どうにかなりそうだった」

「でも、記憶は戻っていないんでしょう」

「うん。俺のこと、全然覚えてない」

 自分で言って虚しくなった。俺自身が、まだそこを受け入れられていないのに。

「淡島くんは、これからどうしていくつもり。勢いにのって、聞くに堪えかねて、あの子を自分の家に連れて帰って共同生活を始めてしまったけど」

「美也子さんだって話を合わせてくれたじゃないか」

「あなたみたいな自由すぎるイトコ、血縁関係にいないわよ」

「俺は、柊花を放っておけなかった」

 二年前、林と喧嘩をしていた柊花を見てから、俺はずっと彼女が気になっていた。

 きれいな人だと思った。だけど、明らかに男に手をあげられているなと察知した。怒鳴る男に何度も「ごめんなさい」と謝る柊花の横顔が、焼き付いて離れない。

「健吾が柊花に手をあげるようになって、だんだんあの子もまいっていったからね」

「きっかけは、なんでしたっけ」

「仕事のミスの連発で、気が立っていたんでしょう。プライドの高いやつだったから……そのぶん寂しがりやで弱虫だから、柊花がいないと壊れそうでね」

「そういうのずるい」

 心の底から思う。俺だって林と同じようなものだ。叔父さんも亡くなって、寂しさを共有していた叔母さんがいなくなって、心にすきまが空いていた。たまたま、林と喧嘩したあとに泣いている柊花に声をかけただけだけど、話をしているうちに彼女が、なんだか自分を満たしてくれている気がしたのだ。この人は危険だ。何度もそう思った。焦がれてしまう。熱く、熱く、俺はこの人を求めてしまう。そんな予感がずっとあったのだ。

「俺だって、柊花がいなかったら、壊れていた」

「柊花はずっと苦しんでいたわよ。健吾がいるのにって……年下の男の子といると、心地いいのよって」

 俺といると健吾のことが頭をかすめる。そういうふうに漏らしたことがある。柊花の切なそうな表情。乱れた髪。いつまでも健吾だけを愛していた柊花。そんな彼女が美也子さんにそういうふうに話していたことを初めて知った。

「あなたの前で苦しんでいる素振りを見せたくなかったんでしょうね。健吾とあなたのあいだで揺れているなんて……柊花は真面目だから、浮気をしている自分が嫌だったんでしょう」

「浮気じゃない。あれは、俺が強引に」

「でも柊花はそうは考えられないのよ。あなたを巻き込んでしまったと思っている」

 美也子さんは淡々と言い、それからふっと微笑んだ。

「一生懸命すぎるわよ、みんな。健吾は死んじゃって、あの子はあなたのことを忘れちゃって、そんな柊花を全部受け止めようとするなんて……無茶よ。どこかで誰かがパンクしちゃうわよ、きっと」

「柊花は俺とのことを知って、パンクするかな」

「どうかしら」

 声が凍える。秋でも日が暮れると十分に寒い。歩くたびに落ち葉の乾いた音がして、叔母さんのことを思い出した。紅葉がきれいで、よく眺めていた叔母さん。俺が掃除をしても次から次へと葉が落ちてくるので、彼女の好んだ景色はずっとあのままだった。

「柊花のことをどうしたいの?」

 単純な疑問。俺は、答えられるなら、堂々とこの胸の内を吐露したかった。柊花本人に、二年間告げることのできなかった思いを、美也子さんにぶつけたかった。もう苦しいのだ。辛くて、悲しくて、やりきれない。でも、それは逃げだ。美也子さんに甘えているだけだ。二年前、柊花に寄りかかりすぎた俺と何も変わらない。

「自由にしてあげたい」

 俺が叔父さんたちにしてもらったように。

 柊花の林への思いから。

 過去から。

 歪んだ愛から。

 救ってあげたい。

「もう、苦しまなくてもいいんだよ。柊花は」

ひとりを楽しむ

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 恋人ができて、なんだか一人の孤独な時間がだんだんなくなっているので、あえてラインの通知を切っている。無性に寂しいくせに、どこか孤独を感じている自分を嫌いになれないので、たまにはそういう時間を欲する。そしてそれは悪いことではないと思う。恋人が煩わしいとか、そういうのではない。私はいつだって、私の時間を必要としているのだ。

 だからふらっと、紅葉を写真に撮ろうと思った。今年、紅葉をまだ一枚も写真におさめていなかったので、いい機会だった。

 落ち葉を踏む音が好き。寒いなか飲むコーヒーも好き。子どもの無邪気な笑い声や、ランニングをしている男性、落ち葉を掃除しているおじさんとおばさんを眺めるのも好き。日差しに照らされてキラキラと光る葉の先端。赤のなかに黄や緑や橙や青がある。鮮やかで、あたたかで、心地いい。

 でも寂しさを感じる。

 目的を達成して、ただその場に立ち尽くすことしかできない私は、とてつもなく孤独だ。

 前も後ろも落ち葉ばかり。空を見上げても、ぐっと伸びる木々の葉が私を囲んでいる。誰かに名前を呼ばれたような気がした。だけど、それは幻聴で、次に耳鳴りがする。それがおさまるまで、大丈夫と心のなかで何度も唱える。私はまだ大丈夫。

 自分の意見を言わないのは、自分を持っていないわけじゃない。私は計っている。他人との距離を。自分との距離も。そうしないと、私も他人も、私のことを受け入れられないから。感情をうまくコントロールできないぶん、周りにどう思われているのかまで考えが至らないから。私のことを私が一番わからないから。

 景色に溶け込めない自分がいる。周りから浮いて、ずっと漂っている私がいる。

 つなぎとめるために、ひとりを楽しむ。

 本を読んだり、映画を観たり、ピアノを弾いたり、歌をうたったりして、私は一人でも人生を楽しむ努力をする。みんな優しいから。みんな、私にはもったいないから。

 

「もっと頼ってええんで」

「それができたら苦労はないねんけどな」

「ほんまに、自分の意見、言わんのやから」

「すまんな。ぼく、そういうやつやねん」

 

 

 

創作 「心のすきま」⑩

 昔から、柊花は辛いことがあっても「しょうがないね」と笑うことが多かった。

 林に目立たない部位を痛めつけられても、罵詈雑言を浴びせられても、「彼は弱い人だから」と言って、へらへらしていた。周りのほうが見ていて苦しくなるぐらい、健気でバカで一途な女だった。

 今も、柊花は微笑んでいる。俺の答えを待ちながら。きっと彼女のなかで色々な疑問や戸惑いや怒りや、それこそ俺みたいなガキにはわからない感情が一気に押し寄せているだろうに。

 永遠に長い時間が俺たちを包み込んでいた。数秒が数時間に感じられた。

 泣いてしまうと思ったけど、涙はやっぱり流れなかった。

 泣くべきなのは、柊花のほうなのだ。

 

 俺はこれからどうすればいい。

 あんたが、俺との2年間を失っていると美也子さんから聞いたとき、事故にあったとか林が死んだこととかすべてがどうでもよかった。

 柊花が、俺を覚えていない?

 どうして?

 事故に遭う三日前、あんなに俺の前で笑っていたのに。

 今みたいな笑顔で。落ち着いた、静かな微笑み。優しい柊花。

「私には話せない?……それとも、話す勇気がない?」

 じゃあ柊花はすべてを知る覚悟があるのか?

 林を失って、どんどん心のバランスを崩していくあんたの近況を人づてに聞くたび、何もできない自分が苦しかった。同時に、何も覚えていない柊花が憎らしかった。林にどんな扱いを受けていたのか、俺があんたのどういう存在だったのか、今の柊花に知らせたらどうなると思っているんだ。

 受け入れられないだろう。

 あんたはどうせ、受け入れられない。

 知る覚悟はできているだろう。だけど、どうせ、拒むんだ。俺のことを。

「知らないほうがいい」

 その言葉だけを絞り出す自分が、ひどくずるく卑怯だと思った。柊花は一瞬、眉をしかめたが、すぐに緩めて「恋人だったの?」と小さい声で尋ねた。

 恋人。

 もし、そうなれていたら、どれだけ俺たちは幸せだっただろう。

 林との縁も切らせていた。あんな男に絶対に近づけさせなかった。慰め合って体を重ねることもなかった。空しい時間を、安いホテルで過ごすことも、なかったのに。

 なにも言わない俺を責めることもなく、ただじっと見つめている。しばらくして、柊花は自分の部屋に戻っていった。

 時計を見て、永遠と思われた時間がほんの数分しか経っていないことに愕然とした。

 

 

 叔父さんが悪性リンパ腫で亡くなった日の夜、俺の前で泣かなかった叔母さんが初めて獣のように吠え続けた。棺桶に収まる、細身の遺体はひどくきれいで、真っ白だった。花を添えるとき、俺はいつまでも死人の頬に手で触れている叔母さんが恐ろしかった。叔母さんじゃない、なにか邪悪なものが憑りついたと思った。少なくとも叔父さんじゃない。叔父さんは叔母さんをこんなふうに泣かせたりしない。

 両親の反対を押し切って美術学科に力を入れている高校に入った俺は「金はいっさい出さん」と言い切られてしまい、ほとほと困ったので、叔父さん夫婦の家に住まわせてもらっていた。叔父さんは自分と似たような道に進む俺を歓迎してくれたし、叔父さんより18歳若かった叔母さんは(「叔母さん」と呼んでいたけど、甥っ子の俺と12歳しか違わない)、「なんだか年の離れた弟ができたみたい」と喜んでくれた。

 学費や画材や通学費など色々と金のかかる俺の面倒を、嫌な顔ひとつせず支えてくれたし、外国への旅行に一緒に連れて行ってくれた。叔父さんの友人を紹介してくれたり、個展を開くときも俺にアイディアはないかと頼りにしてくれたりした。

 大好きだった叔父さん。感謝してもしきれなかった。こんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。

 叔父さんが亡くなってから、叔母さんは今まで以上に部屋をきれいにした。狂ったように掃除をしていた。紅葉が美しく秋空に映える季節になっても、それを眺めなかった。叔父さんの話をしなかった。

 叔母さんは夜、俺と体を重ねるようになっていった。これは暴力だ。俺はそう思っていた。拒むこともできず、俺の腹に乗って腰を動かす叔母さんを、抱きしめることすらできなかった。

 俺が大学3年の夜、叔母さんは失踪した。

 警察に届けたけど行方はわからなかった。今どこにいるのか、生きているのか、それすらもわかっていない。

 

冬と恋

 

  外の空気が冷たくて息がしづらい。鼻の頭が痛くなって、呼吸をするたびにツキンッとした鋭い刺激が走る。追い風が吹いて自転車は一向に前に進まない。もう前なんて見ずに後ろを見ていたい。それではダメなのか。

  冬を誰かと過ごしたことは、実は今までに一度もない。恋人たちは冬を目の前にして居なくなったし、この時期に友達は忙しなく働いているし、そういう特別な日に特別な誰かといることは無縁だと思っていた。面倒臭いと突っぱねていたところもあったので、私は本当に天邪鬼だと思う。

 

  私の無自覚で無責任な行動で周りがあたふたしていることに、私自身が一番気づいていないことが多い。それを周囲に指摘されるたびに、どうして私が責められるんだと初めはひどく辛かったけど、もう慣れてしまった。冬だから最低なことを言うけど、私は本当に、いい加減やで気分でコロコロッと意見が変わる困ったさんなのだ。だから、そんな私に近づいて来る方がどうかしているし、私に変化を求めるなんてもっとおかしい話だ。

  いつも言っている。私は周囲からお墨付きの「困った人」だから、会わない方がいい、関わらない方がいい、誘いに乗らない方がいい。

  私自身も自分のどこに落ち度があるのかさっぱりわからないので、正直お手上げである。私らしくいるだけなのに。

 

  今の恋人にもはっきりと言われた。「ふつう、初めて会う男を家にあげないよ」と。私はそれが不思議でしかない。もちろん、「初めて会う男を家に招く」ことは一人暮らしの女性にとってかなりリスキーなことだろう。自分と相手しかいない空間で何が起こるかなんて、ほんなの、起こってからでないとわからないことだ。「ふつう」は(この「ふつう」も私は本当に苦手な言葉なのだが)、初めての男は家に呼ばない。それは私にもわかっている。

  だけど、私だって誰でもかんでも呼んでいるわけじゃないし、「この人は体が目的なんだ」と察したら相手の車にすら乗らない。だいたい会う前のやりとりでわかるけれど。

  要は気になった人を家に呼んでいるわけだけど、ちゃんと相手に答えを託しているのだ。「私は家に帰る。きみは、どうするの?きみの家に帰ってもいいし、私の家に来てもいい。お茶ぐらいなら出せるけど。きみが決めて」

  だいたいは家の中に来ることを選ぶ。私と少し距離を保って座り、特に何もなく、話だけをする。そのときに言われたの。「ふつう、初めて会う男を家に呼ばないよ」と。コーヒーを飲みながら私は苦笑する男に「家に来ることを決めたのはきみでしょう」と話す。私は別に、あのままサヨナラしても良かったのに、と。「きみが帰りたいときに帰ればいいし、もう少しここにいたいならいればいい」と言う私に男は困ったように頭をかいた。

  「でも、俺は男なわけですよ」そんなことを言うので「じゃあ手を出せばいいじゃない?私だって誰でも家にあげているわけじゃないんだから。ただ、私、恋人ではない人とセックスすると吐いちゃうの。だから、セックスしてもいいけど、もうきみとは会えないね」と話した。

  私たちは初めて会ったけど、なんとなく直感でお互いのことが気に入ってしまったのだ。男は私に触れてはきたけど、絶対に最後までしなかった。私の背中をぎゅーっと抱いて、しばらく息を整えて「俺、我慢できないから帰るね」と言った。

 

  一人残された部屋で、私は煙草を吸った。

  あんなに誘ったのに最後までしなかった。「だって、よかせと会えなくなるの嫌だし。よかせの嫌がることはしたくない」そう言ってキスすらしてこなかった彼は、どんな気持ちで私の家に来たんだろう。彼の帰った後の煙草の匂いが好きで、好きで、「あれ。これ、恋なんじゃない?」と気づくまでまだまだ時間がかかりそうな気がする。

 

  これはあくまでうまく事が進んだ結果なのだ。本来ならどこかでこけて、ものすごく痛い目を見るはずだ。「心配してるのよ」とよく言われるけど、本当に心配されるだけでは手遅れなのかもしれない。左手の傷がまた少し増えた。

 

こぼれおちたタルト

 

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 上手にのせようと思ったのに無理だった。あわわわってなって、落っことしそうになった。二人で美味しいねって食べたけど、小さいからすぐになくなってしまった。

 

気持ち悪いんだよ

 別れた男が好きだった曲を聴いても、愛しさとなつかしさが溢れたら、自分は前に進めていると思う。鈍い痛みを感じなければ、あるいは余裕をもってその曲を聴くことができれば、もうきみは大丈夫だと思う。

  恋人ではない男とセックスして、お互い合意の上で肌を重ねたはずなのに、どうしてこんなに苦しいのかな。それはきっと、自分らしくないことをしてしまったからなんだろうな。

  わかっていることをつらつらと言われたところで響くものはなにもなくて、それどころか、人づてに聞いた情報やその時の場面を見ただけで、「もっと一人で頑張って」と言われる意味がわからないよ。私のためとか言っているけど、ただの脅しだからね。関わりたくないと思ったなら、わざわざ言わずにブロックすればいいじゃないの。暇かよ。

  周りに自分がどう見られているのかとか、わかっているよ。だから、テキトーに付き合える人たちを友達だと呼んでいるんじゃない。理解しなくていい、受け入れなくていい、ただ、時間があったときに会って話をして終わる。そんな薄い関係の方が私は楽で楽しいな。それなのに、なに一人で空回りしてるの。私のこと嫌いなだけじゃん。ただ単に私にだったら嬉しげに言えるから言っているだけなんでしょう。私、お前のことなんてこれっぽっちも興味ないし、話を聞きながらきみに関わりたくないなって思ったよ。だから、もう近寄らないでほしいし、連絡もしてこないでね。私のためとか言ってる、その口が臭いんだよ。気持ち悪いんだよ。

創作 「心のすきま」⑨

 

 山に囲まれている一軒家なので、秋になると紅葉が驚くほど美しい。同時に、道脇の溝や庭にはらはらと落ちてくる鮮やかな葉をなんとかしなければならなかった。毎年、淡島はこれらをひとりで片しているのだという。秋風が冷たいのに汗をかくのだと笑った。

 そのころ私の体重は2キロ増えていたし、外の光を見ても衝動的な発作はほとんどおさまっていた。きれいに髪を整えて、うっすらと化粧をし、外に出られるまでなっていた。隣家とも徒歩10分はかかるほど離れているので、そこに住む足の悪いおばあちゃんとひとり娘のムラタさんとは滅多に顔を合わせなかった。

 なので、早朝の落ち葉集めが私の日課になっていた。

 淡島が起きるよりも早く目が覚めて、外に出ていることもある。そんなとき、淡島は私のぶんのコーヒーを淹れてくれる。そして二人分の朝食を作る。トーストにムラタさんからもらった無花果のジャムをつけて食べる。不思議と淡島といると食が進むのだ。

「アルバムにもあったけど、すごくきれいね」

「叔父さんは夏が好きだったけど、叔母さんは秋を好んでいた。きれい好きな人だったけど、葉っぱが吸い込まれるように落ちている様子は、ずっと見ていても飽きないって話していた」

「あれだけの量が降ると、大変でしょう」

「だからこっそり俺が掃いていたよ。叔母さんが眠っているときに」

 叔父さんと叔母さんの写真はたくさんあった。おそらく二人がまだ出会ってすぐのころのものだ。叔母さんは華奢でえくぼの愛らしい人だった。叔父さんは淡島とどこか雰囲気が似ている、奔放で自由で瞳が子どものようにキラキラ眩しい。不仲だったという両親の話はしないけど、代わりに二人の話はよくしてくれる。

 私は自由だったことがあっただろうか。

 いいや、あれは私が求めた不自由だったのだ。

 健吾との時間は満たされていて、今でも思い出したくないぐらい胸に刻み込まれている。窮屈で、だけど幸せでゆったりとした時間。どこにも行かず、心を乱すこともなく、誰にも媚びることのなかった私。そして健吾を失った日から、あのアパートに自分を閉じ込めていた私。

「きみが自由にしてくれたのよ」

 トーストを齧りながら、「なんのこと?」と淡島が首を傾げる。

「私のこと。自由にしてくれたの」

 淡島の瞳がきらりと光った。涙ぐんでいるようだった。それには気づかないふりをして、目を伏せる。誰かを失って自由になった、だなんて。以前の私だったら絶対に思わないし、健吾のいない世界なんて考えられなかった。

 でも今、私は彼のいない世界を生きている。

 ずっと息もしやすくなった。

 それは、目の前の男がいるからだ。

「だから聞きたいの。本当のことを」

「本当のこと?」

 私は一冊のアルバムを彼の目の前に出した。さっきまで落ち葉集めでずっと外に出ていたので、乾燥で少し指が切れている。

 実は一度だけ、彼のいないアトリエに入ったことがあった。特に出入りを禁止されていたわけではなかったので、画材や道具を見ていた。そして、見つけてしまったのだ。大切そうに机の引き出しにしまい込まれている、一冊のアルバムを。薄いものではあったが、その中に挟まれていた写真はなかなか衝撃だった。

 静かな驚き。

 写真を見た瞬間、私は微かに自分の体が震えているのを感じた。動揺しているけど、でも、薄々気づいていたことだった。アルバムを自室に持っていき、布団の下に隠した。あの日からまだ二日しか経っていない。

 アルバムを目にして、淡島は今度こそ保温等に泣いてしまうのではないかと思われた。

 私はほんの少し微笑んで見せた。

「一緒にいるの、私ときみよね」

 写真の日付は2年前のものだった。海辺を歩いている私。太陽をバックに仲良さげに頬をこすり寄せている淡島と私。穏やかな寝顔と今も使っているコップでコーヒーを飲んでいる朝。絵具を鼻の先につけて無邪気に笑っている、髪の短い、26歳の私。金色の髪の毛の23歳の淡島ミナト。

「美也子のイトコって、すごくでたらめよね。だけど彼女が話を合わせたっていうことは、美也子とも知り合いだったってことなのかな。ごめんなさい、私……覚えていないのよ」

 覚えていない。

 私は、この写真の中の記憶をきれいさっぱり忘れてしまっている。

 そして私が思い出せる記憶の中に、矛盾がある。

 健吾との6年間はどこにいったんだろう。

「教えてほしいの。私には林健吾という恋人がいて、6年間付き合っていた。その間にほかの男性と付き合ったり、健吾と別れたりしたことはなかったの。……だから、この写真を見てすごくビックリした。きみと私が映っていることにも驚いたけど、それをどこかで受け止めている自分もいたから」

 正直な気持ちだった。

 淡島がどうして私をここに連れてきたのか。同じ空間での生活を望んだのか。淡島は私のなんだったのか。

 鼓動は力強かったけど、ひどく落ち着いていた。健吾の死のときほど取り乱すことは、これから一生ないだろう。だから平然なふりではなく、淡島という男を受け入れる準備が心からできていた。健吾との別れほど受け入れがたい現実はないのだから。