しとしと落ちる

創作、雑多、日記

  朝食は卵とヨーグルト、ミニトマト。彼はコーンフレークを好むけど、ベチャベチャなのは苦手なのでミルクをべつで出しておく。カリカリの目玉焼きとほどよく焦げて裂けたウインナー、緑の美しいブロッコリー。紅茶を楽しみながら、彼の食べる様子を見つめる。ただ流れるだけのニュース。あまりに幸福な時間。だけど忙しないのも事実で。最近、コテを彼に買ってもらって、髪を巻く練習をしている。今までストレートアイロンで巻いていたのだ。緩やかに動かそうと思っても、器用とは程遠い動作で満足いくように仕上がらない。

 

  余談だけど、左手に後遺症がある。

  2カ所の複雑骨折、骨が神経を傷つけてまったく痛みを感じなかった。麻痺が残り、顔に手が触れないかも知れないと言われた。全身麻酔の長時間の手術、懸命なリハビリのおかげで麻痺は残っていないけれど、腕を伸ばすと歪に変形しており、更に手先がうまく使えないのだ。この手先がうまく使えないことに気づいたのは、短大生のころ。保育実習でエプロンをつけるとき、背中の後ろで蝶々結びがどうしてもできない。やり方もわかるし、右手は動くのだが、左手が思うようにならない。もどかしい。次に感じたのは、働きだしてから。2歳児が手先遊びとして使っている、ひも通し。これが左手だと私は絶対にできない。利き手ではないからよねと思っていたが、どうやらボタンを外すのも、細かいものを指先でつかむことも、ナイフとフォークを同時で扱うことも難しいらしい。なぜかピアノだけは弾ける。

 

  「行ってきます」と言う彼と、毎朝絶対にキスをする。頬ずりと、抱擁も。五感で彼を感じながら、今日も私のところへ帰ってきてねとおまじないをかける。そうでもしないと、幸福が逃げてしまいそうだから。本気で思っているのだ。笑い事じゃない。明日が、ないかもしれないのに。大切なものが増えると脆くなる。臆病になって、なかなか離せなくなる。こんなに弱虫だったかなと昔を反芻しても、それは無意味なことだとわかっている。夜が来る。一人で耐えるには虚しい闇だ。

  そこに海があった。いつもより慎重な運転で車を走らせる。カーブと坂の多い山道で、ほぼ一車線、信号はない、人間とイノシシはいる(イノシシは実際に見たことがないので、いつ瓜坊が畑の作物を求めて走ってくるかわからず、やけにそちらを気にしていた)。墓石や石の彫刻が有名なその町は、海が近くて潮の香りがほのかに漂う。何度か来たことがある。幼なじみが別荘をここに持っていて、小学生の頃は毎年のように連れてきてもらった。あのとき波に流されたスイカのビーチボールは、今どこを旅しているんだろう。

  片手に、甘い色の包装紙で丁寧に包まれた洋菓子を持って、べつに緊張もせず、「はじめまして」と彼の父に挨拶をした。目元が、よく似ていた。柔らかい表情、落ち着く口調、私たちは色んなことを話した。

  日が落ちて、そろそろ帰りますと腰を上げる。家を出て駐車場へ向かう途中、暗くて大きな海を見た。昼間は「ああ、海だ」ということしか思わなかったけれど、なぜか夜の方が存在感があって、揺れる闇に飲み込まれそうになる。ぽつぽつとある街灯、響くカエルの鳴き声、彼の服についたバーベキューの炭火の匂い。何かを忘れかけてしまいそうなほど、その闇は深かった。それは彼も同じだったかもしれない。黙って、二人で海を見ながらタバコを吸った。漂う煙が、二人がここに、この時間に、得体の知れない奇妙な感覚を共有していることを証明してくれそうな気がして。あまり長居すると戻れなくなりそうで、また慎重に山道を走り抜けた。

 女子高生のとき、好きな男の子の手が少し腰に触れるだけで、そこが熱を持った。狭くておしゃれな雑貨屋屋、女の人が後ろにいることに気づかなくて「こっち」って。夏休みに、教室で一人文化祭の準備をしていたことを思い出す。まだみんなが集まるには早い時間で、一人でひっそりと段ボールにかき氷のメニューを書いていた。あの時間、外で野球部の声がはじけて、吹奏楽部のトロンボーンの重低音が響いていた。雪が少し降るだけで大騒ぎしていたあのころ。感情も感性もすべて研ぎ澄まされて、多感だった。誰と誰が付き合ったとか、エッチしたとか、どうせ忘れちゃう元素記号の暗記とか、かわいくて小さい弁当箱とか。悲しいくらい純粋で平穏で清らかで。蔓延る悪意にも晒されず、なんとなく時間が過ぎていた。

 

  煙草を片手に持ち、夜風にあたりながら今の自分は大人になれているのかと、ふと考える。重い体を起こして出勤して、特に興味もない先輩の話を流して、恋人のためにご飯を作り家事をする。もう十代のようにトキメキも鮮明さも感じられなくなった。でもほんのりと感じる幸福感は嘘ではないと思いたい。

  一度、底辺を漂っていたからこそ、今はどんなに小さなことにも心から安堵する。もしかしたら、十代の頃より柔らかい人間になっているのかもしれない。「もう会うことはないと思っていた」と、男友達が言った。「でもあれから2年は経っているから、もう会ってもいいんじゃないかと思って」見限らずにいてくれて、ありがとう。あの頃の私を知っていても、まだこうして関わってくれているのは、少しずつ私が変われたからだと自惚れてもいいのかな。

  眠りから覚めて今日も絶対生きようって、強く思う。みんな、生きようねって。嘘みたいだけど涙も出ることもある。ああ、昨日を生きたから今日があるって。今日を迎えられなかった人もいるからなおさら。

 

  乾かさない髪はしっとり冷たい。ドライヤーで乾かすの面倒くさいじゃない。ズボラな女になったなと思いつつ、扇風機に頼ってしまう。ただ思ったことを連ねているこの手記に、目を留めている人がいるのだとしたら、それはとても嬉しいことで。

  夜。凛として時雨を流しながら、ベランダで吸う煙草は、別にいつも通りの味なんだけれど特別な時間のように感じて。伏せた視線の先に蝿の死骸を見ては、部屋のぬくもりと対照的に映るその死を偲んだ。禿げたネイルと少しめくれた唇の皮を弄びながら、網戸をしめる。隣の部屋で話し声が聞こえて、彼が誰かと通話をしていることに気づいた。音楽を止めて、静かになった寝室にひとり、ただ夜が濃くなるのを待つ。目を閉じて、10年以上前に友だちから借りて読んだ「キノの旅」を思い出す。深い意味はなくて、なんだっけ、あの話。という具合で。

  多感な年頃に不思議な創作物に触れると、妙な錯覚を起こしていた。まるで自分がその世界の主人公であるかのような、そんな錯覚を。でもよくよく考えてみれば、私の時間の主役はまぎれもない私自身なわけで、それをどう生き抜こうがあるいはリタイアしようが自由な気もするけれど。生き様が老いたときに表れてもそこに自信を持てるように、責任は背負いたい。

 

  落ちた灰が風で散ってしまうのを、ぼんやり眺めた。あれから何日がたった?ユーチューバーに影響されて、ストゼロを飲んだけれど、元々お酒の飲めない私は数口で首元が熱くなり、断念した。ジャンクフードも、こってり味のラーメンも、肉汁が溢れるステーキも、私は食べられない。完食ができない。恋人に食べてもらっている。私は食事でさえ彼がいなければ不完全なままなのに。どうして彼がいないベッドで眠ることができるだろう。今までどうやって彼なしで生きてきたのか、究極を問えばそうなってしまう。自立したい気持ちとまだ赤ちゃんだいたい気持ちがあって、甘ったれの自分を隠すようにまた煙草に火をつける。安っぽいな、私。とても安っぽい。

愛は手に入った?

  春だというのに風は冷たくて、せっかく新しく買ったワンピースも着ることができない。寒さはひとりを思い出すから好きじゃない。当たり前に続く生活、落ち着ける匂い、日々の小さな喜びを積み重ねて、それを共感してくれる相手がいるからまだ私はなんとかやっていけている。最近、幸せそうじゃんと他人に言われる。幸せそうに見えるなんて、すごくいいことだと思う。努めてできるわけないからね。でも時々、ひどくその幸せだと思うものを壊したくなることがある。痺れて、苦しくて、息の詰まる感覚。もう死ぬのかな、と思うけど時間が経てばその微かな期待も薄れていく。

 

  じゅうぶん傷ついたじゃない、幸せだって素直に思ったっていいはず。

 

  それを許してくれないのは、どうしてだろう。たまに気づく。自分の本心に。目を逸らして。敢えてここでは言わないし死んでも口には出さないのだろうけれど。

 

  他人からの注目を得たくて、小さな嘘をついたことはある?

  スマホに映る作られたかわいこちゃんを自分だと本当に信じてる?

  愛を探すふりをして他人の気持ちを踏みにじったことは?

  醜い部分をちゃんとわかっているくせに、それを認めようとしないから生きづらいんだよ。意地を張っていつまでも底にいると腐るだけだから。不幸で居続けるほうが楽だろうね。幸せになるのは難しいし、理想に辿り着くには努力もいる。誰の人生を生きているの?

  私の人生だよ。吐き捨てられたガムみたいな、ねちっこいくせに味のない生き方はもう嫌なんだ。きみたちのためじゃないよ。私のために生きるしかない。綺麗事で片付けないでしまわないように、私はちゃんと振り返る。昨日の自分は泣いていないか。

祖父母を待っているからブログを書く

  年末を迎えて街は賑やかだ。クリスマスとはまた違った類の賑やかさ。ショッピングモールでは多くの人が忙しなく、商品を手に取ってはまた戻し、手に取ってはまた戻し……。華やかな、そして各家庭それぞれの正月を迎えるために、買い物をしている。普段通りに年末を過ごす人も、仲間と大騒ぎをする人も、家族や恋人と楽しく過ごす人も、どうか暖かく満たされた年末であってほしい。

 

  そんな私は今、祖父母の買い物にほぼ強制的についていき、「お惣菜の半額シールが貼られるまでが勝負なの!」とほくそ笑んだ祖母と、本屋で雑誌を眺めている祖父を待っている。店内のベンチに座って、スーパーの電子音めいた曲を延々と聴きながら。時々、祖父がちらっと私の方を向いて、また雑誌へ向き直る。その姿勢はピシッとしていて、何一つ曲がっていない。

 

  祖母は今頃、半額シールが貼られるのを今か今かと待ちわびながら、店内をぐるぐる廻っているのだろう。その背はあまりにも小さくて、被っているニット帽がぶかぶかで小人みたいだ。私は祖母を見つけるのが得意。似たような人を見かけても、絶対に間違わないし、どこにいても「たぶんここにいる」とすぐわかってしまう。だから、街でぐうぜん祖母に会うことが多々ある。

 

  そのとき、初期の認知症の彼女は、一瞬会った孫が誰なのかわからず首をすくめて、少しした後必ず自分の娘の名前を口にする。慌てて、私の名前に言い換えて、恥ずかしそうに笑うのだ。

 

  玄関を開けて鍵穴に鍵を挿しっぱなしにすることが増えた。メガネを置いた場所がわからなくなった。ほんの少しまで考えていたことが思い出せない。そんな小さいことのひとつひとつが積み重なって、なんだか本人もいじらしそうで、見ていて切なくなる。

 

  老いるということは、赤ちゃんに戻ることだ。

 

  世の中のことを少しずつ忘れていって、まっさらの状態に戻る。歩けなくなって、自力で食べられなくなって、言葉も発しなくなり、小さくなる。

  優しい彼女が優しいままの赤ちゃんになりますように。

 

  …半額セールになったので、私も行こう。

 

はだかんばうの 足

 彼にすべてを要求することは私には絶対にできないんだろうなって思う。会いたいと言ったって「昨日会ったじゃん」と言われるだろうし、口には出さなくても思われるのですら辛い。夜を越えるのが苦しくて、早く眠りにつくようになった。孤独に馴染んでいけるようにしないと、やっぱり爪を噛んでしまう。面倒くさい、と自分で思う。彼と出会って救われているはずなのに、私はどこにもいけないまま、またあの暗がりで耐えているような気がしてならない。もうやめようよ、ともう一人の私が言う。誰かを恨むことも好きになることも、自分には向いていないんだろうか。偏りができて、溝が生まれて、膿が溜まっていくような感覚。誰かに自分の気持ちをぶつけることに、勇気なんか要らない。どうせ聞いてもらえないという諦めから口にするその願望が、もし叶えられたのだとしたら、私の歪みは補修されてるんだろうね。だけど、それは彼の生活、あるいは人生をおかしくさせてしまう。私のことを好きでい続けてもらうためには、お互いのことをちゃんと考えて行動するべきだよね。

 自分のことを受け入れてくれている安心感に浸っていると、いざそこから出ようと思っても、なかなかできない。安全だと思ってしまったら、ずっとそこに居続けていたいと思ってしまう。関係が変わっても、それは同じこと。たとえば男と別れたとき、恋人という関係は終わってしまったけど、まだ彼の傍にいても許されると思ってしまう。安全だったから、まだ離れられない。恋人でなくてもいいから、傍にはいたい。そんなバカみたいなこと、相手からしたらとんだ迷惑だろうし、今考えても子どもだったと思う。でも、そうでもしないと生きられなかった。

 温かみのある人になりたい。

 やさしさを与えられるだけじゃなくて、与えていく存在になりたい。自分の価値をむやみに人に決めてもらうのではなく、自分でしっかり認めていけるような人間になりたい。弱さをひけらかして、怯えているのではだめだ。そんなことを考えると夜がいくつあっても足りないから、明日のことを考える。明日のこと。大好きな彼とのこと。読みかけの小説のこと。照らされた部屋。物悲しい音楽。ひとりの私。くまのぬいぐるみ。笑いかけられている気がして、思わず抱きしめてしまった。

 高校生のころから、ひそかにブログを応援していた人がいる。デコログ、ツイッター、ブログ。その人のしているSNSを探してはこっそり読者になって、写真やつぶやきや文章を読んでは、涙を流したり頷いたりしていた。その人は絶望的で、美しくて、きっと語れない部分も多くて、孤独だったのだろう。だが、最近、よきパートナーと出会い、笑顔が増えるようになった。今までの人生の暗い部分を、このときの幸せのための踏み台にしてやると言っていた。出会いが人を変えるとあるけど、本当なのだろう。なんだか今まで見てきた彼女と違う彼女になってしまって、寂しさもあるけれど、私はけっきょくどちらの彼女も大好きなのである。