しとしと落ちる

創作、雑多、日記

少しずつ前へ。

 もうあまり深くは言わないけれど、退職した。理由もその経緯も特にここに書かないけれど、さらっと、職場を後にした。その帰り道に、なんだか無性に心に穴が開いたみたいで、あれだけ辞めたかったし、キツかったんだけれど、私をずっと支えてくれた人たちも勿論いたわけで。ひとつの大きな決断をするとき、決めるのはやっぱり自分なんだけど、周りの意見を聞くことも大事だなって。

 初めてかもしれない。限界が来る前に、もう無理だと相手に伝えたのは。今まで周りがどれだけ言っても、変に生真面目な性格が災いして(勿論、私の長所でもあると思っている)、その結果、取り返しのつかないところまで落ちていったから。今回みたいに、後戻りできなくなる前に自分で決めて実行できたのは、ある意味成長である、と前向きに捉えている。

 キャパシティってやっぱりあるね。人によって不幸とか幸せとかを感じる振り幅や、受けとめる心の持ち用とかって、やっぱり全然違う。誰かが平然とこなしていることが自分にはできない。受け流せることが随時ひっかかる。それを弱いことだと思っていたけれど、罪じゃない。

 本が好きで、1ヶ月に4冊ほど文庫本を読んでいた。次はどんな本に会えるだろうって、すごく楽しみでいた。あるとき、本を読んでいない自分に気がついたの。最近、読めていないなって。私の一部であるはずなのに、どこかにそれが置いてけぼりになってる感じ。休みの日も仕事のことを考えて、けっきょくパソコンに向かっている。余裕がなくなって、今までできていた家のことが追いつかなくなる。なんだか疲れていて、眠っているはずなのに、朝からだを起こすのが気怠い。…いつから、本を読まなくなったっけ。いつから、こんな時間に追われるようになったっけ。いつから、自分を甘やかしていないっけ。いつから、いつから、いつから……。

 先ほども書いたけど、私は「みんなができていることが、どうして自分にはできないのか」に苦しんでいた。仕事が辛いのはみんな一緒のはずなのに、どうしてここまで追い込まれているのか。要領が悪いのか、そもそも自分は頑張っていないんじゃないか、もっと大変な人もいるのに。気がつけば体重は40キロをきりそうになっていた。甘えちゃいけない、食べなきゃいけないと、無理に食べると必ず吐いた。優しい言葉をかけられるたびに、自分が情けなくて、「他の人はできるのに」と咽び泣いた。

 でもさぁ。無理なものは、無理なんだ。ここまではできるけれど、これ以上はできない。それは当然、一人ひとり違うはずだし、感じ方や捉え方だって一律なわけじゃない。私のことは、私にしかわからないし、逆に私にだって自分がわからなくなることもある。それなのに、どうして他人と比べる必要があるのかなって。

 今なら、自分を庇ってあげられる。少し休もうって。きみは誰のためでもない、自分のために大きな決断をしたよって。周りもたくさん言葉をかけてくれたけど、変に罪悪感を感じてしまうから、もう自分で受け止めてあげるしかない。私を肯定するのも、休ませるのも、全部自分でするしか納得できない性分だから。本当に厄介だけど。幸いなのは、次に向けて前向きな姿勢でいられていること。数年前だったら、多分無理だったんじゃないかな。どうしてあのときって、また異常なほどの自責の念に駆られていたと思う。たくさんの人たちに出会えたし、これからもまた色々な人に巡り合うけれど、自分を見失わないようにしたいね。これからもよろしく、私。

自宅にて

 新型コロナウイルス感染により、がらりと変わってしまった日常は、いつかきっと戻ってくるはず。心の中でそう願いつつも、毎日のように増えていく感染者数や、ニュースで報じられる経済面での影響など、情報がたくさん目に入って心が悲鳴を上げそうになる。時々、テレビやスマホを置いて、どこにも行かずに家に閉じこもり、映画や小説に没頭している。自分だけの世界を持つことで、平穏を保とうとしている。現実から逃げているわけではなくて、無謀に立ち向かって勝てる相手ではないから。

 平日の仕事のあとも、休日も、どこにも行かずに必要最低限の用事のときだけ外に出る。ずっと雨だったらよかった。4月の晴れの日は、日差しも暖かくて、外に出かけたい気持ちになるから。喫煙者が感染すると重症化しやすいという報道があって、心の底から憎くなる。また「情報」が私を殺しに来る。色を盗みに来る。

 いくら映画を観たって、本を読んだって、膨大にある時間をうまく使うことができない。どうしても集中力は途切れるし、空いた時間を弄ぶこともなくぼうっとする時間が増える。動画で「平成〇年生まれ アニソン」を調べ、懐かしい曲(なぜか完璧に歌うことができる)を熱唱する。私は「不思議の海のナディア」や「明日のナージャ」「東京ミュウミュウ」が好きだった。弾ける幼少期の記憶。メドレーが終わるたびに部屋のなかは静まり返って、ここが「いま」なのだと実感する。

 雨が降っているから、気温がぐっと下がって春をまったく感じない。洗濯物もさっき干して、米も炊いた。旦那は起きてこないので、一人で「ココ・アヴァン・シャネル」という映画を観る。当時のドレスを着てみたい。細かいレースと、ラインの出た形、ふくらみのある袖にココ曰く「カーニヴァルの衣装のような」派手な装飾。それもいいけれど、しっかりとしたカジュアルなドレスも格好いい。ハットをかぶって、何かに怯えたような追い詰めたような表情で煙草を咥えている。ココ・シャネル役の主演オドレイ・トトュは「アメリ」にも主演として出ている。彼女の大きくて黒い瞳と、形の整った凛々しい眉が好きだ。女らしさを求められる時代に、カジュアルやシンプルを取り入れた。ファッションの時代を大きく動かした女性の伝記映画なので、興味のある方はぜひ観ていただきたい。フランス映画なので、吹替ではなく字幕で見てほしい。舌をコロコロと転がす流れるような美しいフランス語が聴けるから。

 


ココ・アヴァン・シャネル

春の空気が苦手だったりする。

 結婚は幸せになるためにするものではないと、勝手に思っている。私ごとで恐縮だけど、先日入籍をした。まさか自分が結婚するとは思わなかったので、正直実感もなく、まだ呼ばれ慣れない苗字を繰り返し唱えては、違和感を覚えている。結婚願望は元々薄かった。もっと言えば「私を想ってくれる誰かと一緒にいたい」とは思っていたけれど、それが結婚という形に結びつくことがなかった。しかし一緒にいたいと思う反面、突き放してやりたいという欲求と、もっと依存しておきたいという渇望が、喉元を引っ掻いて血が滲みそうになるのだ。どうせ私を思う気持ちは、何らかの優先順位をつけてしまえばランク外で、情に流されるままとりあえず今の時間を過ごしているだけなのだろうと。だから距離を空けたくなるし、求められなくなるのも怖かった。極端すぎるのだ、思考が。ひどく狭い。

 だから生きにくいのも当然だったよな、と振り返れば苦笑しかでない。何をそんなに必死だったのか。自分のことになるとわからないことが多い。人生は理想通りにいかないし、かと言って理想に近づくための努力は惜しまずしていかなきゃいけない。かないもしない理想をひたすら求めていくと、きっといつかお互いに疲れるはずだ。そのとき、人間は弱さが出ると思う。弱さは本性だ。結婚なんて、理想の家庭や夫婦像をいくら描いたところで、それが完璧に叶う家庭の方が少ないと思う。それでも、なんだかんだ幸せだと思うのは、理想に届かなかったとは言え、そのときの生活に見合った幸福が必ずあるから。それを見逃すと心がまず貧しくなると思う。

 はじめに幸せになるために結婚するのではない、と私なりに言ったけれど、そんな理由で結婚をしたら、理想に潰されて現実に殺されると思う。こんなはずじゃなかったのにって。残りの人生の方がきっと長いから、今まで以上のどん底が待っている可能性もある。浮き沈みも激しいし、なにより、沈むのは簡単だけど浮くのには時間がかかる。その浮くまでの時間も相手と共有しなければならないから、家族になるって形だけでは到底無理なことだろうな。

 最近思うのは、幸せを夢見る時点で幸せなんじゃないかということ。不幸に浸っていると幸せを夢見る余裕もない。憎むと思う。たくさんの人の笑顔が尺に触って、まるで自分がバカにされているように感じるし、自分にないものを簡単に手に入れる人たちから、何かを奪いたくなる。守るべきものが何もないと、容易くそれができてしまう。ぎゃくに、歪んだ信念を突き通してしまう場合もあるかもしれないけれど。

 ぼんやりと過ぎる毎日に焦りを感じなくなるのはいつぶりか(焦りというのは、このまま自分が風化してしまいそうな、虚しさと悲しさがごちゃ混ぜになって、何か爪痕を残したいという焦りである)。誰かの守られる存在であり、誰かを守る自分になれて、また生きていく理由ができた。そういえばいつのまにか底冷えする冬が終わって、暖かくなってきたね。実は春の空気が苦手だったりする。眠気と気怠さを誘い込むあの空気。草が芽吹き、緑が地を覆うように、人間の体も冬に溜め込んだエネルギーを無理やり放出しようとしているのではないか。感情の波が穏やかであってくれると有り難い。また、桜を見に行こう。

今年も、ありがとう

 目が覚めると、昨夜遅くに遊びに出掛けた恋人が寝息を立てていた。時刻は12時10分。私が寝たのが0時だから、ぐっすり眠ったことになる。寝過ぎて重たい頭をあげ、ひんやりしたリビングへ。

 少し前から風邪をひいていて、喉の痛みが鬱陶しい。なぜ治らないのかというと、煙草を吸うからなのだろう。一昨年インフルエンザになったときも、煙草がやめられなくて喉だけ大ダメージを負ったのだが、それでも時間が全てを解決してくれると知っているからどうでもよかった。たんが出るのが嫌だけど、しょうがない。ネバ付きのある黄色いそれをティッシュに丸める。

 洗濯物を干して、賞味期限の近い卵をふたつ目玉焼きにして食べ、録画番組を観ていたところで彼が起きてきた。朝に弱い恋人がベランダで気怠そうに煙草を吸う姿が好きだ。ふたりでだらだらとガキ使までの時間を持て余していたが、喉の不調を訴えると、生姜と蜂蜜を買いに彼が家を出た。

 そして今、ひとりでレミオロメンの「大晦日の歌」を聴きながらこれを書いている。今日で2019年が終わるという実感がなく、明日から新しい年が始まるのに、なんとなくまだ気持ちは宙ぶらりんだ。何か新しいことを始めたいなと思うけど…特に思いつかないから、まだその時ではないだろう。ああ、100均で買ったお正月のお着物を飾ろう。玄関に可愛いものを置くだけで、心が躍る。

 どうか、素敵な2019年最後の日をお迎えください。

 今年もありがとう。 

最近、子どもみたいに泣いてしまう

 澄んだ空気を肺一杯に吸い込むと、寿命が延びた気がする。チーズパンを夜食に頬張り、それでも減少の一過を辿る体重は、私の期待に応えてくれない。たぶん痩せることに対しての焦りは偽物で、本心ではこうなることを望んでいるのだと思う。食べることも眠ることも苦手で、生きるのが苦しいけれど、誰しもが感じる当たり前のことを今さら悲観なんてしないから。

 最近、子どもみたいに泣いてしまう。

 実家暮らしのときや数年前だったら、濁流のように制御不能な恐ろしい感情を殺そうと、歯の形に皮膚が裂けるほど左手を噛んだ。涙を流すと抑えられなくて息が吸えず、頻繁に過呼吸を起こした。簡単に泣けない、泣こうものなら溜め込んだ淀みが一気に溢れて、自分を構築するありとあらゆるものが破壊されそうだった。

 恐れず泣いてもいいと気づくのに、身体が覚えるのに何年かかったか。

 

 昨夜、すごくどうでもいいことで容易く涙が出た。恋人が何度も謝り、それでも抑えられず、けれど泣いたら別の何かが彼を攻撃しそうで、シャワーで冷水を浴びながらひたすら頭を冷やした。やり過ごせばいいのだから、なかったことにすればいいのだから。

 部屋に戻り目が合うと、恋人が「おいで」と両手を広げていた。そのとき、私がどれほど安心したかきっと彼は知らないだろう。受け止められることがこれほど心地いい、なんて。抱きしめられるあいだ、声をあげて泣いた。わあわあと恋人の服に涙の跡ができて、頬もぐちゃぐちゃで、それでも頬擦りがやめられなかった。

 

「なんか、ちっさい子みてえー」

 

 わしわしと乾かしたばかりの髪を撫でられる。私、こんなに愛されたことあったっけなーと、一瞬、母の後ろ姿が浮かんだ。一度もこちらを振り向かず、加害的で被害的な妄想を現実だと信じて疑わないあの人の、焦点の合わないやりとりとか、視線とか、想いとか。こっちを見てほしい人に見てもらえなかった、虚無感とか。そんなのすべてがどうでもよくなる抱擁だった。

 眠るとき、昨日の自分とサヨナラをするとき、明日もどうか笑っていられますようにと、ひとつお願いをして目を閉じた。

  そこに海があった。いつもより慎重な運転で車を走らせる。カーブと坂の多い山道で、ほぼ一車線、信号はない、人間とイノシシはいる(イノシシは実際に見たことがないので、いつ瓜坊が畑の作物を求めて走ってくるかわからず、やけにそちらを気にしていた)。墓石や石の彫刻が有名なその町は、海が近くて潮の香りがほのかに漂う。何度か来たことがある。幼なじみが別荘をここに持っていて、小学生の頃は毎年のように連れてきてもらった。あのとき波に流されたスイカのビーチボールは、今どこを旅しているんだろう。

  片手に、甘い色の包装紙で丁寧に包まれた洋菓子を持って、べつに緊張もせず、「はじめまして」と彼の父に挨拶をした。目元が、よく似ていた。柔らかい表情、落ち着く口調、私たちは色んなことを話した。

  日が落ちて、そろそろ帰りますと腰を上げる。家を出て駐車場へ向かう途中、暗くて大きな海を見た。昼間は「ああ、海だ」ということしか思わなかったけれど、なぜか夜の方が存在感があって、揺れる闇に飲み込まれそうになる。ぽつぽつとある街灯、響くカエルの鳴き声、彼の服についたバーベキューの炭火の匂い。何かを忘れかけてしまいそうなほど、その闇は深かった。それは彼も同じだったかもしれない。黙って、二人で海を見ながらタバコを吸った。漂う煙が、二人がここに、この時間に、得体の知れない奇妙な感覚を共有していることを証明してくれそうな気がして。あまり長居すると戻れなくなりそうで、また慎重に山道を走り抜けた。

祖父母を待っているからブログを書く

  年末を迎えて街は賑やかだ。クリスマスとはまた違った類の賑やかさ。ショッピングモールでは多くの人が忙しなく、商品を手に取ってはまた戻し、手に取ってはまた戻し……。華やかな、そして各家庭それぞれの正月を迎えるために、買い物をしている。普段通りに年末を過ごす人も、仲間と大騒ぎをする人も、家族や恋人と楽しく過ごす人も、どうか暖かく満たされた年末であってほしい。

 

  そんな私は今、祖父母の買い物にほぼ強制的についていき、「お惣菜の半額シールが貼られるまでが勝負なの!」とほくそ笑んだ祖母と、本屋で雑誌を眺めている祖父を待っている。店内のベンチに座って、スーパーの電子音めいた曲を延々と聴きながら。時々、祖父がちらっと私の方を向いて、また雑誌へ向き直る。その姿勢はピシッとしていて、何一つ曲がっていない。

 

  祖母は今頃、半額シールが貼られるのを今か今かと待ちわびながら、店内をぐるぐる廻っているのだろう。その背はあまりにも小さくて、被っているニット帽がぶかぶかで小人みたいだ。私は祖母を見つけるのが得意。似たような人を見かけても、絶対に間違わないし、どこにいても「たぶんここにいる」とすぐわかってしまう。だから、街でぐうぜん祖母に会うことが多々ある。

 

  そのとき、初期の認知症の彼女は、一瞬会った孫が誰なのかわからず首をすくめて、少しした後必ず自分の娘の名前を口にする。慌てて、私の名前に言い換えて、恥ずかしそうに笑うのだ。

 

  玄関を開けて鍵穴に鍵を挿しっぱなしにすることが増えた。メガネを置いた場所がわからなくなった。ほんの少しまで考えていたことが思い出せない。そんな小さいことのひとつひとつが積み重なって、なんだか本人もいじらしそうで、見ていて切なくなる。

 

  老いるということは、赤ちゃんに戻ることだ。

 

  世の中のことを少しずつ忘れていって、まっさらの状態に戻る。歩けなくなって、自力で食べられなくなって、言葉も発しなくなり、小さくなる。

  優しい彼女が優しいままの赤ちゃんになりますように。

 

  …半額セールになったので、私も行こう。