しとしと落ちる

創作、雑多、日記

春の空気が苦手だったりする。

 結婚は幸せになるためにするものではないと、勝手に思っている。私ごとで恐縮だけど、先日入籍をした。まさか自分が結婚するとは思わなかったので、正直実感もなく、まだ呼ばれ慣れない苗字を繰り返し唱えては、違和感を覚えている。結婚願望は元々薄かった。もっと言えば「私を想ってくれる誰かと一緒にいたい」とは思っていたけれど、それが結婚という形に結びつくことがなかった。しかし一緒にいたいと思う反面、突き放してやりたいという欲求と、もっと依存しておきたいという渇望が、喉元を引っ掻いて血が滲みそうになるのだ。どうせ私を思う気持ちは、何らかの優先順位をつけてしまえばランク外で、情に流されるままとりあえず今の時間を過ごしているだけなのだろうと。だから距離を空けたくなるし、求められなくなるのも怖かった。極端すぎるのだ、思考が。ひどく狭い。

 だから生きにくいのも当然だったよな、と振り返れば苦笑しかでない。何をそんなに必死だったのか。自分のことになるとわからないことが多い。人生は理想通りにいかないし、かと言って理想に近づくための努力は惜しまずしていかなきゃいけない。かないもしない理想をひたすら求めていくと、きっといつかお互いに疲れるはずだ。そのとき、人間は弱さが出ると思う。弱さは本性だ。結婚なんて、理想の家庭や夫婦像をいくら描いたところで、それが完璧に叶う家庭の方が少ないと思う。それでも、なんだかんだ幸せだと思うのは、理想に届かなかったとは言え、そのときの生活に見合った幸福が必ずあるから。それを見逃すと心がまず貧しくなると思う。

 はじめに幸せになるために結婚するのではない、と私なりに言ったけれど、そんな理由で結婚をしたら、理想に潰されて現実に殺されると思う。こんなはずじゃなかったのにって。残りの人生の方がきっと長いから、今まで以上のどん底が待っている可能性もある。浮き沈みも激しいし、なにより、沈むのは簡単だけど浮くのには時間がかかる。その浮くまでの時間も相手と共有しなければならないから、家族になるって形だけでは到底無理なことだろうな。

 最近思うのは、幸せを夢見る時点で幸せなんじゃないかということ。不幸に浸っていると幸せを夢見る余裕もない。憎むと思う。たくさんの人の笑顔が尺に触って、まるで自分がバカにされているように感じるし、自分にないものを簡単に手に入れる人たちから、何かを奪いたくなる。守るべきものが何もないと、容易くそれができてしまう。ぎゃくに、歪んだ信念を突き通してしまう場合もあるかもしれないけれど。

 ぼんやりと過ぎる毎日に焦りを感じなくなるのはいつぶりか(焦りというのは、このまま自分が風化してしまいそうな、虚しさと悲しさがごちゃ混ぜになって、何か爪痕を残したいという焦りである)。誰かの守られる存在であり、誰かを守る自分になれて、また生きていく理由ができた。そういえばいつのまにか底冷えする冬が終わって、暖かくなってきたね。実は春の空気が苦手だったりする。眠気と気怠さを誘い込むあの空気。草が芽吹き、緑が地を覆うように、人間の体も冬に溜め込んだエネルギーを無理やり放出しようとしているのではないか。感情の波が穏やかであってくれると有り難い。また、桜を見に行こう。