創作 「演じられた夜」④

「月子さんは恋人を作る気はないのですか」

「ないわね」

 明日実がバイトに出かける夕方の7時。それとほぼ入れ違いに、空野くんが訪れる。明日実と空野くんは大学でずっと一緒なのだそうで、家に訪れるときぐらいは、私と話していたいのだそうだ。これは明日実から聞いたので本当かどうかはわからない。だけど、タイミングが合いすぎるので、きっと明日実が連絡をしているのだろう。

空野くんからすると私は恋愛をすればいいのだという。それほど恋人は重要なのだろうか。空野くん自身は恋愛をしないらしいのだけれど、それでも夜を一緒に過ごした女の子ぐらいいるでしょう。私にはその経験すらない。

「恋愛をする時間がとても無駄に思えるの。そうは思わない?」

「僕は単純に人を好きになれないだけですからねえ。恋愛をしなくても、セックスはできるから」

「それはとてもドウブツ的ね」

「もっとひどいですよ。明日実はうまくやれるけど、僕はどうもそういうのが苦手でして」

 自嘲気味に笑っている。

「いかつい兄ちゃんにどやされたこともあります」

「ずいぶんと悪い子ね」

 仕事を進めながらの空野くんとのおしゃべりは、嫌いではない。

「明日実は、丸くおさめるというか、誰も嫌な気がしないじゃないんですか。彼と付き合ってみて」

「私もそう思う」

「明日実って、普段からああなんですよね」

「そうよ」

 姉である私にですら、優しい。嫌な気を一切持たせない。だから二人で暮らしていけるのだと思う。

「疲れないんですかね」

「え?」

 空野くんの言葉に、頭を後ろから何かで殴られた感覚がした。なに、今の。

 思わず手が止まる。

「本当にああいう性格なんだとしたら、すごく尊敬しちゃいますけどね」

「え、ええ……そうかしら」

「だって、誰に対しても誠実でいようと振る舞っているということですよね。ん、いや、違うか……本来なら極悪非道なことでも、表では自分に非がないようにやっているってことですもんね。よっぽど計算しないとできないことじゃないですか」

 月の輪郭がぼやけている。空野くんの声を聴きながら、私は窓の外からこちらを見つめる白い塊を見返していた。それが月だということに気づいて、驚いた。あんなに曖昧なものだったかしら。

 私の日常も、こんなに曖昧だった?

「まだ、演じられた夜は終わってないんじゃないんですかねぇ」

 そのとき、今まで優しいという感想しか抱かせなかった空野くんのことを、初めて意地悪だと思った。

 何かを見透かされて、それを否定されているような気持ちがする。きっと、私も気づいていることだけど、あえて伏せていること。他人には決して覗かれたくない部分。すべてが日の出るところに晒されると、蒸発して消えてしまう。

「それは……とても困るわ」

 素直に答える。

 誰かに邪魔をされたくない。終わるのなら、いっそ、本人の手で。

「怖がらなくていいから」

 私は、恐れているのかしら。少なくとも空野くんの目に、私はとても怯えているように映っているらしい。大きくて細い手で、私の頭を撫でた。明日実より冷たい手。触れられることは嫌ではないけれど、空野くんに対する警戒心は薄まらない。

 私は怖がりなのだ。

 私の世界に他者を入り込ませる隙も余裕もない。完璧に守られている。誰によってこの世界が成り立っているのかなんて、考えなくてもわかることだ。だから気づかないふりをする。怖がりだから、目を向けない。逃げているかもしれないけれど、それを批判する人間はいない。というか、私の世界に干渉させない。

 今の、今まで。

「わかっちゃったわ」

「なにがですか」

「空野くんは、私のこと、とても嫌いでしょう」

 また笑う。

 目が半月みたいになる。

 この人も演じ手だと気づいて、私は心の奥で悲鳴をあげた。

 

 「今日ね、少しだけ嫌なことがあったの」

 朝方に帰ってきた明日実は少し疲れている顔をしていた。木曜の大学は昼からなので、日が昇るころに帰ってくる。シャワーを浴びて、歯を磨いて布団に潜る彼に、私は思いきり甘える。

 明日実はそれを受け入れる。私は彼の匂いをたくさん吸い込んで気持ちを満たしたあと、返事を待たずに続けた。

「嫌なことが起こると、胸のなかが悲しみでいっぱいになってしまうでしょう。それがどうにも我慢できないの。みんな、どうやってこの気持ちを処理しているの」

「それぞれだよ。みんな、それぞれ上手くやっているんだ。表には出さないだけで」

「この気持ちと仲良くなることはできないのかしら」

「月子さんにはちょっと難しいかもね」

「ねえ、明日実」

 唇が震えた。明日実は穏やかに微笑んでいる。

「明日実は今、私の優しい弟を演じているの?」

 どこまでが現実で、どこまでが遊びなのか。私の見ている明日実は、本当の明日実なのか。空野くんにちょっかいをかけられたぐらいで、ここまで怯えなくていいんだけれど。明日実という人間をすべて理解したつもりでいたのに、また振り出しに戻ってしまう。

「お母さんが目の前で飛び降りたとき、どうしてとめなかったの?」

「それはこの間話したでしょう。彼女を楽にさせてあげたかったんだ」

「死んだら楽になるの?」

「お母さんにとってはね」

「じゃあ、明日実は?明日実は、今、疲れていない?私と一緒にいて」

「どうして」

 完璧すぎる私の弟は、きっとお母さんのように脆い。今の私の世界は、きっと、彼一人によって守られているままごとの世界。演じられていた夜。

「お母さんが死んで、私が壊れたから」

 中学校はほとんど行けなかった。親戚のうちで物を破壊し、窃盗を犯し、問題視されていた。今は落ち着いているけれど、徘徊癖もあった。荒んだ生活を送っている姉を、この子はどんな思いで見てきたんだろう。まだ、小学生だったこの子は。

「私を守るために、明日実は、演じてくれているんじゃないの?」

 自分で言い出しておいて、涙があふれてきた。否定してほしい。そうじゃないと、私はまた、あの頃の私のところまで落ちてしまいそうだ。

「こんな、演じ手を買って出てまで、私には価値がないのよ」

「ばかだねえ、月子さん」

 力強く抱きしめられて、頭がどうかなりそうだった。見捨てないで、お願いと、子どもみたいに泣きじゃくりたかった。

「そんなこと、あなたが気にすることじゃない。月子さんは何の心配も疑いもなく、俺と一緒にいればいい」

 ああ、明日実──!

 私の欲しい言葉をすべてくれるあなたが、愛おしい。思わず額に口づける。空野くんはああ言ったけれど、やっぱり私たちは間違ってなんかいない。この世界は、すべて、私たちのものなのだ。