創作「演じられた夜」③

 

「空野くんは女の子をよく勘違いさせているのではない?」

 バイトから戻った明日実がシャワーを浴びるのを待って、私は声をかけた。空野くんはニコニコしながらこちらを見ている。

「こいつは、気に入ったやつにしか興味を持たないからなぁ」

「あら。私のことをけっこう褒めてくれるのよ」

「月子さんが魅力的に映っているせいではないかな」

「でも恋愛感情は持っていないのよねぇ」

 空野くんは相変わらずニコニコだ。なるべく私たち二人の会話に、彼は参加しようとしてこない。傍からじっと見物しているのがいいのだそうだ。以前、空野くんがあまりにもしつこく褒めちぎるので「あなた、私を好いているの?」と訊くと「恋愛はしないのです」と返事がきた。なんとも思わせぶりな男め、と思ったけれど、私にはもっと女泣かせの弟がいたので、気にならなかった。

「人畜無害だよ、空野は」

「あまり褒められたことがないから、とてもくすぐったいの」

「月子さんを困らせるんじゃないよ」

 穏やかな口調。明日実の視線に、空野くんはやっと深く頷いた。

「困らせてはいませんよ。僕は思ったことをそのまま伝えているだけだから」

「月子さんは純粋なんだ」

「知っていますよ」

 なんて言って空野くんはまだ笑っている。私はいったん仕事を片付けて、ご飯を作ることにした。よく空野くんも食べていく。

 そして、そこから私と明日実の遊びが始まる。

 

 

 豆腐とわかめの味噌汁、少し焦げ目のついた塩サバと、温かいご飯。

 私と弟の食卓は必ずお味噌汁とご飯と何かだ。それは給料日前だと納豆やもずくになったり、給料が入って財布が重くなると、こうして魚だったり野菜の筑前煮だったりする。料理が好きな母を習って、私は小さいころから台所に立つことが多かった。父も母も他界して、天涯孤独になった私たちは、築58年の古いアパートに移り住み、細々とした生活を送っている。

 弟は無造作に伸びた髪を後ろでひとつにくくり、軽く手を合わせて、無言で箸を塩サバに伸ばした。身をほぐす手つきは丁寧で、私は惚れ惚れとしてしまう。きれいな仕草が様になっているけれど、その手は、過去に、人を痛めつけたことがある。

「ねえ、おまえ」

 言わないでおこうと思ったけれど、私はお世話焼きなので、つい口にしてしまう。それをどれだけ疎ましいと思われても。

「その手は大丈夫?なんだか、私から見ても痛々しそうだから」

「うるせえわ」

 きれいな顔に似つかわない、反抗的な口調。机の下で私の足を軽く蹴る。これぐらいじゃあ、この子の姉は務まりません。私は背筋を伸ばして、母が生前そうしていたように、真っすぐに弟を見つめた。

「どの口がきいているの。おまえの手が、とても可哀そうだと言っているの」

 傷だらけで、痣のある、手首に包帯の巻かれた左手。かつて弟が、弟自身を痛めつけたもの。私には理解できないことだらけだ。痛みで自分を律しているつもりなのだろうか。それで周りが苦しんでいることに、どうして配慮がいかないのか。

「死にたい、と思ったことがないから、よくわからなくて」

「これは主張だ」

 傷を作りながらも、彼は私の料理を美味しそうに食べている。よほど腹が減っていたのだろう。よく噛みもしないで。……ああ、米粒がついている。

「俺が生きたいという主張なんだ」

 主張。なにを、一丁前に。私の働いたお金でまんまが食べられているというのに。なんて若くて、青くて、苦いのだろう。人生のなにを経験して、そんな大それたことが言えるのか。この、

「糞餓鬼」

思っていたことが、そのまま口に出た。今まで言えなかった言葉。最大の悪口。育ちの良い母からきれいな言葉を使うようにあれほど言われてきたというのに。そんな、そんな、そんな!

 横から伸びてきた手が、私の頬を打つ。ぱんっという乾いた音。そして、じわじわと広がる熱。きれいな弟にぶたれた。私の頬が、ぶたれた。喚いている弟がなにを言っているのか、わからなかった。こぼれた味噌汁が今にも床に落ちそうだとか、今でも広がる頬の痛みだとか、体の震えとか。そういうものが、一気に押し寄せすぎて、情報処理が追い付かない。

 ああ、ああ、ひどい。

 ひどいわ。

 おまえのことを思って言ったのに。

 

 

 やりすぎだと思わないのは、本気で遊んでいたからだ。

 明日実に打たれて赤く腫れた頬を冷やしながら、私は先ほどの役柄について振り返る。なんて無神経で、無粋な姉なのだろう。私とはとても程遠い。私を打った後、明日実は保冷剤を手拭きタオルで包んで渡してくれた。頭を優しく撫でて、甘い笑みで私の瞳を捉える。そしていつものように煙草を吸った。

 私たちの遊びをずっと、客観的に見ていた空野くんは、私が明日実に打たれたときも、魔法が解けた後も、動じずにそこにいた。絵具が違う色と混ざり合い、馴染むように、彼は私たちの演じる夜に溶け込んでいた。他人がそこにいようが、いなかろうが、関係ない。どうでもよいこと。私と明日実にとって、二人以外の存在はエキストラでしかない。もっとも、それは私たちの遊びの間だけだ。それが終われば、空野くんは空野くんだし、友人や家族もそれぞれの役割に戻る。

「月子さんたちの遊びは、いつだって突然に始まるけれど、役はどうやって決めているんですか」

「昼間に。メールで」

 短く答える。つまらない質問だったから。

 赤く腫れているかもしれない。治るのに数日はかかるだろう。それでも私はかまわない。明日実の顔に傷や痕があるのは嫌だけれど、私の顔面なんてどうでもいい。自分のことを過小評価しすぎだと言われたことがあるけれど、明日実のような弟がずっと一緒にいるのだ。そういう思考に陥る。でも、それを嘆いたことなど一度もない。明日実が私を姉として愛し、認めてくれているのだから。

「本当に不思議なキョウダイだ」

 お茶を飲んで、空野くんは帰っていく。

 私と明日実は、今夜も手をつないで眠る。

 

 

 お母さんが窓から飛び降りたとき、明日実は何を思っただろう。

 目の前で母親が奇声を発しながら落ちていく様子を、8歳の男の子は喚きもせず、泣きもせず、助けも呼ばず、ただじっと部屋の隅で固まって見ていた。テレビに夢中になってミルクを口から垂らしている乳児のように。事の成り行きを見ていた。

「お母さんは疲れていたんだろうね」

 明日実はぽつぽつと私に言った。打たれた頬の腫れはひいている。そこを優しく撫でながら、明日実は静かに話す。

「ずっと正常な自分を演じていたんだよ。俺たちのために」

「だから、お母さんが飛び降りるのをとめなかったの?」

「うん。これが、当たり前なんだって思ったから。俺と月子さんが守られてきたんだよ。お母さんとの優しい日々は、彼女が演じていた非日常だったんだ」

 それを自ら壊したお母さんを、誰も責めない。私と明日実はその日から、どこかふわふわした夢を見ている気がしてならない。お母さんがいなくなって、二人だけの世界になった。演じ手がいない、宙ぶらりんになった私たち。

 親戚のおかげで専門学校を卒業して、イラストを描きながら生活している私は、賢くて大学に通う明日実と暮らしている。バイトをしている(なんのバイトかは実は知らないけれど、時間帯的に水商売だとは思う)明日実が、生活費を入れてくれているので(それもけっこう多額なので、やっぱり水商売だと思う。私もあえて聞かないけれど)、そこそこ安定している。

 不自由のない暮らし。

 明日実のいる暮らし。

 私に足りないものなどない。

 手を伸ばせば明日実がいる。温かい手。私を受け止めてくれる、かわいい弟。きっと私が血のつながりのない女だとしたら、彼を求めて殺しちゃうぐらい、好きになっていたかもしれない。いいや、きっとそう。そうなるに決まっている。鎖骨の辺りまで顔を寄せて、深く彼の匂いを嗅いだ。煙草とシャンプーの匂い。ほのかな明日実の体臭もする。私と同じ匂いだわ。やっぱり私たちはキョウダイね。