創作「演じられた夜」②

 

 明日実が産まれてすぐに父と母が離婚した。

 母はまだ幼い私と赤ん坊の明日実を連れて実家に帰り、スーパーのパートをしながら私たちを育ててくれた。一生懸命に働く母を私と弟は尊敬していたし、祖父母も優しかったので、なんら不満などはなかったし、父親がいなくなったとしても、まあ最悪な人だったのでぎゃくに落ち着いていた。

「月子さんが明日実くんの面倒を見てくれて嬉しいわ」

 母はいつもそう言っていた。

 祖父母が立て続けに亡くなって、三人で安いアパートに引っ越した。細々とした生活は続いたが、幸せに満ちていた。だから何一つ欠けているものなどなかったのだ。私たちはお互いに足りないものを埋め合っていたし、強くて優しい母もいたのだから。

「あの頃はねえ」

 懐かしそうに明日実が目を細める。

「お母さんが俺のために歌を歌っていたし、月子さんもクッキーなんかを作っていて、とても幸せだったよねえ」

「そうね。今もとっても幸せだけどね」

「月子さんは、俺と一緒にいて幸せなんだ」

「そうよー」

 夜も遅いので、そのまま寝ることになった。私たちは布団をふたつ敷いて、隣同士で手をつないで眠る。それは小さい頃からの決まり事だったし、習慣だったので、大人になった今でも変わらないことだった。

「おやすみなさい」

 朝になれば、この手が自然に外れていることを知っている。

 でもつながなければ、私たちは、姉と弟に永遠に戻れない気がするのだ。

 

 

 この遊びを思いついたのは、明日実の方だった。

 自分たちで考えたキャラクターを演じ切る。おとぎ話の世界を作り上げよう、と。子どもの、ままごとの延長のようなものだろう。そういう軽い気持ちで始めたことだけど、思いのほかしっくりきてしまった。私の中にもう一人の自分がいるような、そんな気持ちがしたし、それが心地よかったのだ。

「それはまた、奇妙なキョウダイですね」

 私の話を聞いて、空野くんが首を傾げる。空野くんは、明日実の大学の友だちで同じ演劇部なのだそうだ。何度も私と明日実の事を聞きたがるので、同じ話をするのだけれど、そのたびに今と同じ反応が返ってくる。もうお約束みたいなものだ。

「私たちが納得しているのだから、いいと思うけれど」

「まあ、周りがとやかく言うものじゃないですけどね。いやいや、僕はいいと思いますよ」

「空野くんも混ざればいいのに」

「いやいや。遠慮しておきますよ、ええ、はい」

 明日実がバイトに行ったので、私は空野くんと二人きりで話している。空野くんと一緒の時間は別に苦ではない。彼は基本的に笑っているし、あまり心の内を見せない人なので、私としては軽い気持ちで傍にいられるのだ。イラストレーターの私は、家で仕事をすることが多い。カフェに行ってすることもあるけれど、集中力が続かないのだ。空野くんは「上手いですねえ」とか「おおー、すごいですね」とか好き勝手に感想を言ってくる。明日実は絶対に私の絵に感想を言うことはないので、褒められることは素直に嬉しい。

「月子さん、シャーペンの持ち方、きれいですね」

「ありがとう」

 やたらと私のことを褒めるけれど、べつに私に恋愛感情があるわけではない。空野くんは誰に対しても誉め言葉を口にする。前述したけれど、私よりも明日実の方が他者からの注目を集めやすいので、あまり褒められたことのない私は照れてしまう。俯いて、カリカリと手を動かす。空野くんの視線を感じながら。

「明日実って、大学でも女の子にモテモテなの?」

「そりゃあ、モテますよ。きれいな顔、していますからねえ」

「カノジョとかいないのかしら」

「カノジョはいませんねえ」

 カノジョはいない。だとしても、女の子の体ぐらいとっくに知っているだろう。明日実がカノジョだと紹介してきた女の子はいない。でも、目撃情報は常々あった。どこどこ高校の制服を着た女の子と歩いていたとか、ちょっと年上のお姉さんとラブホテルに入っていったとか、そんなこと。確認をするのもおかしいので、本人には黙っていたけれど、夜遅く帰ってくることがあるので、きっと本当のことも混ざっているのだろう。

 私は経験がない。

 付き合った男性がいない。そして、恋愛というものをきっとしたことがない。

 だから設定上、「愛の重い」とか「失恋した」とかあるけれど、あんなものはすべて想像だ。

「明日実みたいな弟がいたから、私は男性を好きになれないのよ」

「あらまぁ。でも明日実、格好いいから、そうなるのかもしれません」

「どんな人よりも、彼の方がずっといいもの」

「月子さん、まるで明日実に恋しているみたいだ」

「それはないわ」

 はっきりと言う。明日実もそこはきちんと否定するべきだと言っていた。

 仲の良すぎる私たちだけれど、肉体関係は皆無だ。母が、最後まで私たちの関係を疑っていたけれど、なんて滑稽なのだろう。私たちはただ、遊んでいただけなのに。

「役にのめり込んでしまって、キスぐらいはしたことあるけれど、だからといって、弟に恋愛感情なんて持たないわよ」

「そんなものですかねえ」

「そうよ。明日実も私みたいなやつ、お断りでしょうよ」

「月子さんはきれいですけどねえ」

 馬鹿を言っちゃいけないわ。明日実の方が美しいのに。空野くんを呆れた目で見つめたあと、つい癖で下唇を噛んでしまった。荒れた唇は痛々しいと、明日実に注意を受けたばかりなのに。リップクリームを塗って、また机に向かう。繊細な線を、息をとめながら引く。その時だけは、空野くんも私に話しかけない。シャーペンが紙から離れたとき、私がふっと息を吐いた瞬間、空野くんは「きれいですよ」そう話しかけてきた。

「月子さんは、ものすごくきれい」