創作「演じられた夜」①

 

 もうすぐで彼が帰ってくる。

 秒針が進むたびに私は身構え、深く呼吸をする。古いアパートの外階段から、誰かが上ってくる音が聴こえて、扉の前で止まる。ガチャガチャと鍵を開けて、彼は「ただいま」も言わずに慌ただしく入ってきて、部屋の奥でうずくまる私を見下ろす。

 冷たい目。

 私はか細い声で「おかえりなさい」と呟いた。でも、彼はそれを無視して、私の胸倉をつかむと乱暴に立たせてベッドに押し倒す。そして抵抗することのない私の首を、大きな手で絞める。ああ、ああ、ああ!苦しくて、目玉がごろりと裏返りそうになる。殺されてもいいと思ったのに、どうしても生に執着してしまう。あと一歩なのに。生きたいと思ったとき、すでに私の体は力が入らなくなっていて、私を冷淡に眺める彼を睨みつけることしかできなくなっていた。私のことを、愛してもいない彼。

 ああ、もうすぐで、私は彼に殺される──。

 

 私たちの遊びが始まったのは、いつからだろう。

 気づけば、お互い暗黙の了解でそれを楽しんでいた。

私と弟の仲の良さは両親もよく知っていた。5つ違いの、かわいい弟。私は彼をとてもかわいがっていたし、彼もよく私になついていた。明日実という名前なのだけど、顔立ちも女の子のようで整っていて、「月子ちゃんの弟ってかわいいー!」とよく友だちにも褒められた。弟よりも私のほうが得意げで、弟を見せたいがために、家に友だちをたくさん呼んでいた。明日実は、自分のかわいさをわかっていたのか、あえて顔を見せない日もあったし、いつまでも私の部屋から出ていかないこともあった。

「あのころの俺って、けっこう小悪魔だったよな」

 彼は、煙草を吸いながらほくそ笑む。

 遊びが終わったあと、彼は絶対に煙草を吸う。今回の役は、「愛の重たい女を軟禁していたストーカー気質な男」だった。設定を考えたのは私だ。昼ドラを見ていて思いついて、これはどうだと提案すると、明日実は「やってみたい」と言ってくれた。大喜びで、私はストーカーに歪んだ愛情を向けられる女の役をして、それに入り込みすぎていた。同じように、暴力的で心の弱い男を演じた明日実も、本気で私の首を締めあげていることに気づいて、魔法が解けたみたいに、その時間を強制的に終えた。

「小悪魔だったわね。女の子泣かせというか……でも、だれもあなたを嫌っていなかった」

「そりゃあ、穏便にすませていたから。世渡りが上手なんだよ」

「自分で言うの?でも、そうね。確かにあなたは世間体がいい」

 何もかも私とは正反対だった。きれいで、強くて、健康的で、優しい弟。誰に対しても平等的で、人の心を操るのが上手い。だけど誰もそれに気づいていない。明日実の手の平の上で転がされているのに、彼の都合のいいように考え抜かれた結末なのに。ちょっと考えればわかることなのに。

「月子さん、灰皿をとってくれない?」

 言われて、私は艶のある濃い緑色の浅い灰皿を彼に渡す。そこに煙草を押し付けたあと、長く色気のあるため息をついた。

「私は人と会うのが苦手だから……。でも明日実を羨ましいとは思わないわ」

「まあ、俺みたいなやつがもうひとりいたら、散々だろうね」

「あなたを真似ようと思っても、絶対にできないから」

「月子さんは、俺を褒めるのが上手だなぁ」

 愉快そうに明日実が笑う。

 私もなんだか楽しくなってしまって、笑顔の明日実を眺めた。

「本当に、かわいい弟ね」