創作 「心のすきま」🈡

 

 べつに他人の生活をとやかく言う趣味はないけれど、あれは正直、いただけないと思う。

 誰がどう見たって、ハッピーエンドでもバッドエンドでもないからだ。かといって終わることもなく、始まってもいない。何もなく、淡々と日常が過ぎていって、気づけばみんな皺だらけといったオチ。

 そんな面白くもない話を私は傍で見守っている。ずっと。もうずっと。

 柊花と淡島くんが一緒に住むようになって、1年が過ぎた。未だに柊花の記憶は戻らないし、淡島くんと恋人になってもいない。あやふやなまま、二人の関係は続いている。きっとセックスもしていない。まるで姉弟のように、あの美しい紅葉が見える家に住んでいる。柊花の様子を見に、私も秋に淡島家に伺ったけど、見事なものだった。

 柊花はもう帰らぬ人となった林健吾を今も好きだと言っている。堂々と、キラキラした目で。それを愛しそうに、どこか寂しそうに見つめている淡島くんは、こんなに彼女を思っていることが他者に伝わってくるのに、柊花に悟られないように必死な様子だった。それすら分かるぐらいなのに、柊花はまったく気づいていない。気づいちゃいけないといったところか。

 苦しい選択をしたと思う。健吾から暴力を振るわれていると分かったとき、何度も別れることを勧めた。だけど複雑な家庭環境で育った健吾を見捨てられないと、彼女はどこか崇拝心すら込められた表情で言い放ったのである。悪い男に捕まってしまったと思った。どこかに柊花を救ってくれる男はいないかと、願った。

 淡島くんが、たまたま料理店の駐車場で罵詈雑言を浴びせられている柊花を目撃したとき、この人ならと思った。柊花を支えてほしい一心で、二人がうまくいけばいいという思いで、健吾には私と一緒にいることにして、二人の時間を作った。彼女が健吾から離れる覚悟を用いるのに、2年かかった。当たり前だ。6年も一緒にいた健吾から関係を断つことなど、並大抵のことじゃない。

 別れを告げると決めた8月のあの夜、健吾と運転手は亡くなって、唯一助かった柊花も重傷を負った。淡島くんとの2年間を失って、さらに最愛の健吾を亡くしたショックで取り乱す柊花を、私は見ていられなかった。淡島くんもそうだと思う。苦しくて、辛くて、涙すら出なくて、息もできないくらいの悲しみが襲ってくる。柊花の様態を知らせて、お願いだから早くあの子を救ってと、泣きながら電話をかけた。私の大事な友だちを、救ってほしいと。

 言ってしまえば、私の身勝手な願いだったのだ。

 淡島くんが、ひとりで住むには広すぎるあの家に柊花を迎え入れると決めたとき、私は手をたたいて喜んだ。彼との時間を思い出せば、心も回復に向かうかもしれない。彼女のご両親にも事情をきちんと説明して、淡島くんと挨拶にも行った。家族にすら心を閉ざした柊花には頼れる人が限られている。手を差し伸べようとしても、健吾の死に向き合わせようとされることを警戒してか、絶対に首を縦に振らないのだ。

 彼の存在が、どうか柊花にとっていいものでありますように。

 親友を思った私の願いは、本当に、淡島くんにとって身勝手だった。

「もう柊花のことを好きだと言ってもいいと思うの」

 柊花がここにきて二度目の秋が山を美しく、赤く染めていた。私も初めてこの光景を見たとき(そのときは柊花が送ってきた写真だった)、一度は実際に見てみたいものだと思った。3歳になる娘を連れてやってきたけれど、なるほど、真っ青な秋空に赤が映えて、本当に美しい。息をのむほど壮大で、ひんやりとした空気を吸い込むと体のなかの悪いものが全部、なくなったような気がする。柊花が娘の真理と遊んでくれるというので、私は淡島くんと二人でコーヒーを飲んでいる。

 私の言葉に、一瞬肩を震わせた淡島くんだけど、努めて冷静を保った。

「あなたも、もう楽になったら?」

 どうしてか、私は淡島くんに対してきつい口調になってしまう。彼のどこまでもそこに立ち尽くしているような態度が、行動派の私の苛立ちを掻き立てるのだろう。ウジウジしていないで、早く前に進みなさい。男でしょう。柊花に対して甘いと、以前夫からも笑いながら言われたけれど、私は柊花が大事すぎて回りを気に掛けることが些か雑になってしまう。

 淡島くんが柊花と住むことを話してくれたときも、口では「破天荒すぎる」と言ったけれど、内側では安心していた。支えられるのはあなただけだから、と。

「ごめんなさい。頭ではわかっているの。あなたも苦しいってこと」

「べつに、いいです」

 細長の目。伸びていた髪を切った淡島くん。すらっとした指がコップを撫でた。ぶっきらぼうに見えるけど、それは口調のせいだ。表情は柔らかい。

「簡単に楽にはなれないわよね。そういう性格だもの。戒めているというか……自分を苦しい状況に追い込んでいくというか……。本当に柊花に似ている」

「柊花は、俺のことを本当に覚えていないし、林が死んだことも受け入れようとしない。今のままが一番いいんだ」

 本当なら彼が一番、あの子を抱きしめたいだろうに。

 頑張ったねと、言ってやりたいだろうに。

「このままだと、二人とも年寄りになっちゃうわよ」

「それでいいよ」

「あなたは柊花を救ってくれた。私が考えもしない方を選んで。私があなたなら、柊花に自分との記憶を思い出させるか、もし記憶が戻らなかったとしても、ゆっくり時間をかけて、恋人になっていくんだろうなと思ったの」

「俺も、最初はそうしてやろうかと思っていました」

「私も、それを願っていたのよ」

 言って、一口だけコーヒーを飲んだ。淡島くんの淹れてくれたコーヒーは美味しい。柊花がいつもそう言っている。朝に早く起きて、すぐにコーヒーを作るのよって。

「でも……柊花はそれを拒むだろうな」

 なんて寂しそうな目をするのだろう。母親に置いてきぼりにされた子どものような目。

「俺もあいつが苦しむのは、もう見たくない」

「柊花を見守っていくのね」

「ああ。もう絶対に、見限らない」

 精悍な顔つき。芯のある言葉。彼はもう決めたのだろう。

 支えでもなんでもない。柊花の心の隙間を埋めるだけの存在になると。それがどれほど切なくて報われないことであろうと、淡島くんはこの生き方を変えないだろう。

「お母さーん」

 私を呼ぶ娘の声がして、すぐに「美也子、落ち葉を拾ったのよ」と柊花の声も聞こえた。二人して子どもみたい。一人は本当の子どもだけど。穏やかで温かい日常が柊花にもやっと訪れたのだ。それが、目の前に座るこの男の犠牲の上に成り立っているとしても、彼女は気にも留めないだろう。

「落ち葉でお山も作ったの」

「ミナト、こっち来てー!」

 柊花に名前を呼ばれて、淡島くんが幸せそうに口元を緩める。「いま行く」と小さい、優しい声で答えて椅子から立つ。答えなどないのかもしれない。なにをすれば正解だとか間違いだとか、わからない。人は、簡単に救われないし、簡単に闇に引きずり込まれる。淡島くんは誰よりもそれを知ってしまったのだろう。だから絶望もしない。辛さに耐えていける。柊花の傍にずっといられる。

 私が次に願うのは、柊花のことじゃない。

 どうか、彼らの日常が、ずっと平穏に続きますように。波立たぬよう、嵐が来ないよう、誰にも邪魔されませんように。淡島くんなら絶対に願わないようなことを、私が淡島くんの分も祈ってあげる。

 私の大切な人たちの時間が、満たされていきますように。 

(終)