創作 「心のすきま」⑬

玲子さんと別れたあと、家に戻ってシャワーを浴びた。この季節、湯船にお湯を張らないと寒くてすぐに体が冷える。早々に出てバスタオルで体を拭いていると、固定電話が鳴った。下着を身に着けて素早くスウェットを着て、慌てて子機をとる。電話の音で柊花が起きてしまう。

「もしもし」

 電話の向こうの相手は、何も言わなかった。背後から、クラシックの音楽が流れてくる。これはショパンだろうか。じっと返事を待っていても、相手からの反応はない。不審に思ってもう一度「もしもし」と尋ねた。それでも音楽が流れているだけだ。いたずらだろうかと思ったが、ふっと、相手がため息をついた。ため息かどうかすらわからないほど、小さな吐息。それが、なんとなく、懐かしい。

「……叔母さん?」

 尋ねたとたん、電話は切れた。ツーツーという音を聴きながら、しばらくそこに立ち尽くしていた。叔母さんだ。絶対に、叔母さんだ。生きている。亡霊から電話がかかってくるなど、ありえないのだから。

 髪の先から水滴が落ちた。夢を見ているように、自分が存在しているという感覚がなかった。足が、ふわふわする。叔母さん、叔母さん、叔母さん。どうして俺を置いていってしまったんだ。叔母さんも、愛する人を失って、現実から目を背けてしまった。俺とセックスをしたのに、寂しさを埋めるための手段とはいえ、ひどく勝手じゃないか。俺は、ただただ悲しかった。悲しすぎて、このまま溶けて無くなってしまうのではないかとひどく怯えた。なんて彩りのない、無機質で、半透明な日常だろう。

 林に怒鳴られている柊花を見つけなければ、ずっとひとりで闇を抱えて生きていただろう。俺たちは、似ている。

「どうしてそんなにずぶ濡れなの」

 きれいな声色。我に返り、柊花を見る。起きてしまったのか。

「ちゃんと拭かないと、風邪をひくよ」

「あ……ごめん」

 なぜか謝って、肩にかけていたタオルでわしゃわしゃと頭を拭く。

「さっき起きちゃって。もう一度眠ろうとしたけど、無理だった。目が冴えちゃった」

「そう。ホットミルク、作ろうか」

「お願いしてもいい?」

 台所に行き、二人分の牛乳を鍋に入れて、火をつける。くつくつとした音。薄い膜を破って、湯気が立ち込める。俺も柊花も、猫舌だけど熱いものは熱いままでいただきたいのだ。だから、コップに口をつけて飲むとき、少しだけ緊張する。蜂蜜を淹れた方を柊花に渡して、二人で微笑みながら飲む。あのアルバムが知られて以来、柊花は俺を時々、母親のような目で見る。その視線が俺をどうしようもなく甘ったれた子どもにしてしまうのだ。本当は、言わなきゃいけない。告白をすべきときだ。いい機会なのだ。柊花にすべてを話し、俺を好きだと言わせて、二人で仲良く幸せに暮らす。それが、できれば。

「ねえ、一昨日のアルバムのことだけど」

 どくんっと脈打った。コップを持つ手が少し震えた。

「べつに、きみが言いたくないのなら、言わなくていいよ」

 涙が溢れそうになった。

「きみがいないときに、アトリエに入った私のせいでもあるし。きっと……私たちは愛し合っていた仲なんでしょう。あれだけ大きな事故だったもの。記憶のひとつやふたつ、失っていたっておかしくないと思ったの。健吾のことも……どうしてだか、あの人との時間を思い出すたびに、変な違和感が胸につっかえて苦しくなるの」

 そう言って、胸をさする。

 愛された記憶の違和感。柊花自身、薄々気づいているのだろう。自分は林から歪んだ愛情を向けられていたことを。

「健吾は、今もいるの」

 その言葉は、俺の心を深くえぐる。叔父さんが死んだことを受け入れられない叔母さんと、ダブるのだ。そうじゃない、もっと現実を見ろよって言いたいけど、言えない。柊花の真っすぐな目を見ると、何も言えなくなる。林のときだけ見せる顔つき。本気で林はまだこの世界にいると信じ切っている、思い込んでいる、狂気を含んだ視線。そこに触れないように、俺は静かに頷いた。

「でもあの写真も本物だと思う。写真の中の私も、きっとそう。寂しくてたまらなかったのかな……。本当のことは、きみが話してくれない限りわからないけど……私は浮気をするような女だったの?」

「いいや。浮気じゃないよ」

 ただの、寂しがりやたちの慰め合いだ。

 玲子さんにハッキリと「柊花が好きだ」と言えなかったのは、俺が、彼女たちを重ねてしまっているからだ。叔母さんと柊花。周りの人間を巻き込んでしまうほど、一人の男を愛した強い女性たち。

「友だちだった」

「友だちが同じベッドに寝ているかしら。寝顔を撮り合うかしら」

「肉体関係のある、友だちだった」

 自分で言っていて吐きそうになった。まだ温かいコップが表面と手の平の境目をなくす。ぼやけていく柊花の表情。

 柊花、あんたは最終的に俺との未来を約束したんだ。

 事故に遭ったあの日、あんた、林と別れる話をしていたんだぜ。俺にハッキリ「けじめをつけるわ」って言ったんだ。覚えていないだろうなぁ。

「俺がたぶらかしたんだ。あんたのことを、気に入ったから。あんたはずっと、林健吾を愛していた」

「よかった」

 その口調の変化に驚いて見ると、柊花の弾けた笑顔があった。心の底からホッとした。そういう笑顔だった。