創作 「心のすきま」⑫

 

 電話を切ったあと、俺は家の周りを軽く歩いてみた。

 空気が澄んでいて、星が良く見える。歩みを進めるたびに落ち葉を踏む感触が伝わってくる。鮮やかな紅葉が闇に包まれていて、息を深く吸うと木の匂いがした。街灯などない。遠くにある村田さんの家にぽっつりと灯がついていた。

 ポケットからライターと煙草を取り出して吸う。指先から灰の匂いがする、と叔母さんはよく言って俺に石鹸で手をしっかり洗うように言った。煙草が苦手な人なのだ。

 ふらふらと歩いていると、向こうから人影がこちらに近づいてくるのに気づいた。

 向こうは俺に気づいているらしく、軽く手を振ってくる。よく目を凝らすと、玲子さんだった。

 玲子さんは村田さんのひとり娘で、柊花によく手作りのジャムを届けている人だ。もともと唯一の隣人同士で、叔母さんを訪ねて何度か家に寄っていたし、足の悪い村田さんを叔父さんも心配していたので、互いの家を行き来していた。俺との付き合いもそれなりに長い。

「ミナトくん、こんばんは」

「どうも」

 ニット帽を深く被っている玲子さんは、とても小柄なので、中学生ぐらいに見える。本人は否定しているけど、童顔なせいでもある。

「柊花ちゃんは?」

「今寝ている」

「ひとりにして大丈夫なの」

「大丈夫」

 彼女は少しずつ心を取り戻しているように思う。三食きちんと食べて、ぐっすり眠って、紅葉を見て、自然に触れる。体力を取り戻せば、心の回復も早くなる。健康的になれと叔父さんもよく言っていた。肉体を磨いていれば、洗礼された心を保てる。だから人は健康でなくてはならない。心を蝕まないように。

「泣きそうだね」

 暗くて玲子さんの表情はよく見えないけど、相手には俺のすべてが見えているようだった。夜目が効くのだと前に言っていた。

「柊花ちゃんと一緒に住むようになって、ミナトくん、よくそんな顔をしている」

 自分の頬を撫でてみる。泣きそうな顔をしているだろうか。柊花の前でもそんな表情になっているのか。

「よっぽど、柊花ちゃんが大事なんだね」

 玲子さんは、俺と柊花の二年間を知っている。なんとなく、俺が女の人と会っていることに気づいていて、柊花と住むようになってから「この人だ」とはっきりわかったのだという。勘が鋭いので、誤魔化しがきかない。

「知られたらまずい秘密を知られたら、玲子さんはどうする?」

「突然すぎるね」

 投げやりな質問にもきちんと考えて答えてくれる人だ。

「相手に誠意を見せるかな。その秘密がなにかわからないけど、それを知られてまずいなと思ったのなら、許されようなんて思っちゃいけない。ひたすら自分の誠意を受け取ってもらえるように時間をかける」

「誠意を、受け取ってもらえなかったら?」

「拒むことは誰にでもできるよ。受け入れることは、確かに簡単ではないかもしれない。だけど、知ることで変わるなにかもあるだろうし、時間が解決することだってある。秘密を知った相手だって、きみの全部を否定しているわけじゃないでしょう」

 柊花はそんなことをしない。優しいから、心のなかでどれだけ俺に対して疑問や不信感を抱いていても、俺が答えるまで待っていてくれる。記憶を失っても、彼女自身は何一つ変わっていない。それがぎゃくに切ないのだ。

「考え込まないほうがいいと思うよ。もっとシンプルにはいかないの?」

 シンプルに。

 それは無理な話だ。

 俺だって、好きになった人が恋人から暴力を受けていることを容認しているなんて、思わなかった。そして彼女自身、自分が傷ついてボロボロなことに無自覚だった。

「健吾を愛しているの。でも、ねえ、少し休みたいの」

「私は、嫌な女だね。ミナトも、そう思うでしょう」

「言い訳にしているの。健吾も、きっと寂しいだけなのよ」

 あんな男を好きだという、優しくて愚かな柊花。あいつと別れると決めるまで2年かかった。その別れ話の日に、林は亡くなり、柊花は俺の記憶を失くした。柊花を責め続けて、自分の運命を呪った。だけど、柊花が健吾の死を受け入れられず、すべての世界から目を背けている姿を見て、恐れを抱いてしまった。この人をこうまでさせる、嵐のようなものが心をずたずたにしているのだと思った。俺はわかってしまった。あのときに。俺は柊花に何もしてやれないと。

「きみは、じゅうぶんやっていると思うけれど」

 玲子さんが両手を口の前にあてて、息で温める。この人は俺と柊花のことをどこまで知っているのだろう。

 目が合うと玲子さんは少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「とても苦しい恋だね」

「俺は……もう、柊花を好きとか、そういうので考えていない」

 守りたい。救いたい。助けたい。

 アトリエに籠っても、頭に浮かぶのは病棟で泣き狂う柊花の姿だった。美也子さんに頼んで見舞いにも何度か行ったけど、そのときの柊花は、俺のことなど目に映ってはいなかった。

「だけど、柊花ちゃんはきみのことを好きなんじゃないの」

「それはない」

「どうして」

「柊花は、ずっと、別の男を好いているから」

「上書きしちゃえば」

 簡単なことじゃない。

 思わず怒鳴りそうになった。

 でも、玲子さんは続ける。

「確かにきみも柊花ちゃんも痛みを味わったかもしれない。そこから這い出して、前を向いて生きろなんて無責任なこと、私は言わない。でも、全然関係ない第三者からしてみれば、きみたちは心に隙間があるように見えるな。埋められない、満たされない隙間が。どれだけお互いがお互いに愛情を注いでも、ポロポロ零れ落ちちゃうんだ。だから、双方が歩み寄ろうとしているのに、隙間と、過去が邪魔をして、一歩も進めない。痛みを思い出してしまって、苦しくなってしまう。素直に相手を思えばいいのに、許すかどうかの話に逸れてしまう。……柊花ちゃんは難しいと思うけれど、きみなら、自分でその隙間を埋められるんじゃないかな。きみは、自分の心を満たしていないのに、柊花ちゃんを救おうとするから、うまくいかないんだよ」

 玲子さんの言葉は、清い水のように俺に注がれる。俺のなかの水瓶がそれを受け止めようとする。誰かに似ているといつも思っていたけど、玲子さんの雰囲気は、どことなく叔母さんに似ていた。

「死ぬ気で愛してみなよ。きみは、まだ大丈夫」