創作 「心のすきま」⑩

 昔から、柊花は辛いことがあっても「しょうがないね」と笑うことが多かった。

 林に目立たない部位を痛めつけられても、罵詈雑言を浴びせられても、「彼は弱い人だから」と言って、へらへらしていた。周りのほうが見ていて苦しくなるぐらい、健気でバカで一途な女だった。

 今も、柊花は微笑んでいる。俺の答えを待ちながら。きっと彼女のなかで色々な疑問や戸惑いや怒りや、それこそ俺みたいなガキにはわからない感情が一気に押し寄せているだろうに。

 永遠に長い時間が俺たちを包み込んでいた。数秒が数時間に感じられた。

 泣いてしまうと思ったけど、涙はやっぱり流れなかった。

 泣くべきなのは、柊花のほうなのだ。

 

 俺はこれからどうすればいい。

 あんたが、俺との2年間を失っていると美也子さんから聞いたとき、事故にあったとか林が死んだこととかすべてがどうでもよかった。

 柊花が、俺を覚えていない?

 どうして?

 事故に遭う三日前、あんなに俺の前で笑っていたのに。

 今みたいな笑顔で。落ち着いた、静かな微笑み。優しい柊花。

「私には話せない?……それとも、話す勇気がない?」

 じゃあ柊花はすべてを知る覚悟があるのか?

 林を失って、どんどん心のバランスを崩していくあんたの近況を人づてに聞くたび、何もできない自分が苦しかった。同時に、何も覚えていない柊花が憎らしかった。林にどんな扱いを受けていたのか、俺があんたのどういう存在だったのか、今の柊花に知らせたらどうなると思っているんだ。

 受け入れられないだろう。

 あんたはどうせ、受け入れられない。

 知る覚悟はできているだろう。だけど、どうせ、拒むんだ。俺のことを。

「知らないほうがいい」

 その言葉だけを絞り出す自分が、ひどくずるく卑怯だと思った。柊花は一瞬、眉をしかめたが、すぐに緩めて「恋人だったの?」と小さい声で尋ねた。

 恋人。

 もし、そうなれていたら、どれだけ俺たちは幸せだっただろう。

 林との縁も切らせていた。あんな男に絶対に近づけさせなかった。慰め合って体を重ねることもなかった。空しい時間を、安いホテルで過ごすことも、なかったのに。

 なにも言わない俺を責めることもなく、ただじっと見つめている。しばらくして、柊花は自分の部屋に戻っていった。

 時計を見て、永遠と思われた時間がほんの数分しか経っていないことに愕然とした。

 

 

 叔父さんが悪性リンパ腫で亡くなった日の夜、俺の前で泣かなかった叔母さんが初めて獣のように吠え続けた。棺桶に収まる、細身の遺体はひどくきれいで、真っ白だった。花を添えるとき、俺はいつまでも死人の頬に手で触れている叔母さんが恐ろしかった。叔母さんじゃない、なにか邪悪なものが憑りついたと思った。少なくとも叔父さんじゃない。叔父さんは叔母さんをこんなふうに泣かせたりしない。

 両親の反対を押し切って美術学科に力を入れている高校に入った俺は「金はいっさい出さん」と言い切られてしまい、ほとほと困ったので、叔父さん夫婦の家に住まわせてもらっていた。叔父さんは自分と似たような道に進む俺を歓迎してくれたし、叔父さんより18歳若かった叔母さんは(「叔母さん」と呼んでいたけど、甥っ子の俺と12歳しか違わない)、「なんだか年の離れた弟ができたみたい」と喜んでくれた。

 学費や画材や通学費など色々と金のかかる俺の面倒を、嫌な顔ひとつせず支えてくれたし、外国への旅行に一緒に連れて行ってくれた。叔父さんの友人を紹介してくれたり、個展を開くときも俺にアイディアはないかと頼りにしてくれたりした。

 大好きだった叔父さん。感謝してもしきれなかった。こんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。

 叔父さんが亡くなってから、叔母さんは今まで以上に部屋をきれいにした。狂ったように掃除をしていた。紅葉が美しく秋空に映える季節になっても、それを眺めなかった。叔父さんの話をしなかった。

 叔母さんは夜、俺と体を重ねるようになっていった。これは暴力だ。俺はそう思っていた。拒むこともできず、俺の腹に乗って腰を動かす叔母さんを、抱きしめることすらできなかった。

 俺が大学3年の夜、叔母さんは失踪した。

 警察に届けたけど行方はわからなかった。今どこにいるのか、生きているのか、それすらもわかっていない。