創作 「心のすきま」⑧

 淡島の朝は早い。6時がくるかこないかの時間に起きて、顔と歯を磨いたあと、一杯のコーヒーを飲む。そして洗濯物をして、アトリエにこもる。そのとき、私はできるなら声をかけないでほしいと言われた。集中して、周りが見えなくなるので、そういう姿を見られたくないのだという。ただ私が本当に苦しくて、自分の置かれている状況がわからなくなったときや混乱して取り乱しそうになったとき、遠慮なく自分の名前を呼んでほしいと言われた。私は頷いたけど、名前を呼ぶことはないと思った。私が呼びたい名前の人は、もうこの世にはいないのだから。

 淡島が絵を描いているとき、私は私の部屋(元叔母さんの部屋)で本を読むか、家の中を少し見て回るか、簡単な家事をするか、このうちのどれかをしている。なんとなく、じっとしているのは耐えられなかった。住まわせてもらっているのだから、自分のできることはしたほうがいいだろうし、それに淡島の目に自分がどう映っているのかも気になった。あんな、きれいで子どものような瞳で見つめられると、羞恥心で消えたくなる。

 できるだけ髪の毛をきれいにとかして、お風呂も毎日入るようになった。淡島のことが気になっているのではなく、自分のことが気になりだしたのだ。

「良い変化じゃない」

 電話越しに、美也子が微笑んだのがわかった。

 淡島と一緒に住み始めて一週間が経ったころ、美也子と電話をした。彼女は私の声に少しだけ魂が宿ったと話した。

「身だしなみを気にすることも必要よ。今は何もかもを彼に任せて、あなたはゆっくり休むことね」

「今までも、ずっと休ませてもらっていたのに」

「あんなところで引きこもっていたら、心が壊れてしまうわ。余計に」

「私、そんなにひどい状態だった?」

「自覚がないってことは、よっぽどね」

 美也子がため息をついた。

「少しずつ変わっていけばいいのよ。もちろん、忘れられないこともあるだろうけど」

「変わってもいいのかな」

「柊花の人生は柊花のものなんだからね。……だから、私は言葉をあげることしかできないのよ。変わろうが、変わらなかろうが、それは柊花の自由だから」

「健吾に恨まれないかしら」

 彼はどちらかといえば自分の方だけを見てほしい男だった。

 美也子は呆れたような、子どもに諭すような口調で言う。

「霊感がないから、わからないわ」

 

 

 古い一軒家なだけあって、いろいろ珍しい物も見つかる。淡島の叔父さんが収集したどこかの外国のインテリアだったり、撮った写真だったり。それを眺めているだけで時間があっという間に流れていく。好きに見ていいと言ってくれたので、私は日中、ほぼそれらを見ていることが多くなった。

 アルバムもたくさんあり、肌の色の違う子どもが白い歯をのぞかせて笑顔を向けているものから、荒んだスラム街で生活する貧しい暮らしを映したものまであった。美しい海や沈む夕日、豪華なホテルから埃っぽい小さな民宿。素敵な旅をしていたのだろうと思う。あちこちの国を回って、たくさんの友人をつくって、美味しいものを食べていた。淡島は懐かしそうに叔父さんについて話してくれた。

「写真家でもあり、絵描きでもあったんだ。これも、叔父さんが描いた」

 スケッチブックには鉛筆で様々な人の顔がスケッチされていた。よく特徴をとらえている。しわくちゃのお爺さんの唇が切れていたり、目元とえくぼが似ている親子だったり、人を惑わせるような視線を持つマダムだったり……。飽きることなくそれを見つめて、ほぅっと息をつく。異国に行ったような気持ちになれた。

 短い感想を伝えると淡島は嬉しそうに目を細める。自分のことを褒められたように。