創作 「心のすきま」⑦

 食卓を囲んでいるとき、不思議と吐いてしまいたいという気持ちは生まれなかった。美也子の料理みたい、と思った。自分で作りたくなくて、インスタントのものを食べていたけど、胃の中がかき回される感覚がしてすぐに吐いた。それからは何も食べたくなくて、酒だけ飲んでいた。美也子がいなければ、本当に餓死していたかもしれない。いま以上に痩せてガリガリな自分の死体を想像して、気分が萎えた。

 淡島は食べ方がとても上品できれいだった。繊細、というか本当に命をいただいています、という感謝の気持ちが伝わってくる。きちんと「いただきます」「ごちそうさま」を言葉にしていたので、私もそれにならった。

 食器を洗おうかと申し出たが、座って休んでいてと言われたので、そうさせてもらった。男の人と食事をするのが久しぶりだったので、気を遣わなかったわけじゃない。それにいつもより多く胃の中におさめたので、お腹が苦しかった。

「ここの家の人たちは、どこに行ってしまったの」

「亡くなったんだ。叔父さんは二年前に病気で。癌だった。叔母さんは行方不明」

「行方不明?」

「どこかで死んでいると思う。叔父さんが亡くなって、気持ちが落ち込んでいたから。俺のことも目に入っていなかったみたいだし」

 失踪して、自殺した。淡島はそう思っているようだった。

「俺と両親は本当に折り合いが悪かった。どちらも教師で、頭がお堅いというか……小さい頃からずっと反発してばかりで、高校を卒業してここに住まわせてもらうようになってから、もう何年も会ってない。……ああ、叔父さんの葬儀とかで会ったな。そういえば」

 関心のない口ぶりだった。この人にとって、叔父さん夫婦のほうが家族だったのだろう。

 ひとりで住むには広すぎる家。微かに残っている、家庭的なぬくもり。私が使っている、行方不明になった叔母さんの部屋。

「俺は、自分のしたいことをして、それなりに評価をもらっている。仕事もある。それに叔父さんが遺してくれた金で生活している」

 話を聞きながら、私は胸につっかかる違和感を飲み込んだ。

 美也子から親戚に行方不明者がいるなんて話を聞いたことがなかった。彼女は親戚付き合いが多いわけでもなかったから、興味を持っていないだけかもしれない。

「私、きみに何も返せないのよ」

 貯金もないのよ。体もこんなにガリガリだし、抱き心地も悪いでしょうよ。

 淡島は目を細めて、赤子を見るような表情で私を見つめた。

「返さなくていい。あんたは、あんたのことだけ考えていればいい」

「どうしてそんなに優しいの」

「あんたと俺が似ているからだよ」

「どこが」

「ちょっと説明できない。でも、じきにわかるよ。俺とあんたは似ている」

 言って、淡島はまた子どもみたいに笑う。

 切れ長の目が糸のように細くなる。どうしよう。心地いい。

 

 

 

 初めて夜を迎える部屋だというのに、自分のアパートのときよりもぐっすり眠れた。なにかに守られているような気がして、それはきっと、淡島の叔母さんの幽霊だと思った。行方不明だから、死んでいるとはまだ限らないけれど、淡島が死んでいると言うのだから、きっとこの世にはもういないのだろう。

 でも怖い感じはしない。不気味に思わない。

 健吾のことを思って泣いてばかりだったころ、彼はどうして私の傍にいてくれないのか、そんな理不尽な思いすら抱いていた。彼のいない時間は恐ろしくゆっくりで、だけど周りは慌ただしく過ぎていって、いつの間にか気づいたら私は私を失っていた。

 左腕の傷や痣を見ても、淡島は何も言わなかった。美也子から色々と話を聞いているのかもしれないけど、彼から私に対しての質問はなく、本当に「わかっている」ような感じだった。私のすべてを。

──なんてこと、あるわけないじゃない。

 朝を迎えているけど、布団から出ないまま、じっと考える。時刻は、まだ6時過ぎだった。

 淡島が私の全部を知っているなんてこと、ありえない。私ですら私のことをわかってあげられないのだから。感情を上手にコントロールできない。外に出て、車が通るたびに目眩がした。クラクションの音も、ノイズのように聞こえて、今までどうやって生きてきたのかわからなくなった。というか、健吾がいたから、今まで生きてこられたんじゃないかと思うほどだった。

 健吾、健吾、健吾……

 あ、思い出さないようにしないと、ほら、また、

 呼吸とか、耳鳴りとか、いろいろ。

 わからなくなるから。

 …………ああ、もうほら、

 わからなくなるから

「柊花」

 健吾ではない声がした。だけど、落ち着く声だった。

 ゆっくりと、手が、私の額を撫でている。温かい手だった。

「ごめん。光が、苦手だったね」

 淡島は辛そうな顔をして、私を見下ろしていた。私の苦手なこと、どうして知っているのだろう。もしかして本当に私のこと、ぜんぶ知っているのだろうか。浅かった呼吸がだんだん落ち着いてきて、やっと目の焦点が合う。頭と手足が痺れていた。淡島が見下ろしているから、視界が暗い。

「本当だった」

「なにが」

「私を、助けてくれた」

 そのためにいる、と淡島が呟く。

 久しぶりに健吾以外の人の腕のなかで泣いた朝だった。