創作 「心のすきま」⑤

 

 

 

 電車に揺られて30分。景色がどんどん変わっていき、田んぼや畑が広がるようになる。私の知らない土地に足を踏み入れることに少しだけホッとした。あそこは人が多すぎた。息もしづらかった。電車から降りて切符を車掌に手渡すとき、その手に大きなほくろがあるのを見つけて、なんとなく触れることを拒んでしまった。妙に避けた私のことを不思議そうに見ているだろう彼の視線に耐えられなくて、ずっと俯いていた。そうでなくても、今の私は目立つのだ。痩せていて、髪の毛もぐしゃぐしゃで、明らかに危ない人っていう印象を植え付けるだろう。一時期、他人に自分がどう見られているのかが怖くて、部屋の中だけが私の世界であるような気がしていた。だから、こうして外にでるたびに思う。私が立ち止まっていても、世界は進んでいるんだろうなと。

 ついていけていないだけなんだ。健吾がいない世界を生きていた時間だって、絶対にあったはずなのに。失ったほうの時間が長い気がするのは、これから先の未来を彼と一緒に過ごせることを期待していたからだろう。その時間がぽっかり空いてしまった。隙間風がびゅうびゅう吹いて、私から彼の身体だけを奪い去ってしまった。だけど神様はいじわるで、彼の存在そのものを奪ってはいかなかった。

「ここが俺の家」

 着いたのは古い一軒家だった。家の外壁は少しはがれていて、表札の「淡島」の文字も霞んでいる。なんだか、おじいちゃんの家みたいだと思った。ポストも今どき珍しい赤色の、隙間から手紙が投函されて、下の出っ張りを引くと中身が取れるタイプのものだった。

「古いでしょう。築50年とかかなぁ……。俺の亡くなった叔父さんの家なんだ」

 淡島が鍵穴に鍵を差し込んで、少し力を入れて時計回りに回す。ガラガラガラと引き戸が開かれる。すぐ左手に靴箱があって、何枚かの写真が飾られていた。続く廊下は少しだけ埃が降りていて、白っぽくなっている。ひとりで住むには広すぎる家だった。

「木の匂いがする」

 正直な感想を言う。靴を脱いであがると、ひやりしたと床の冷たさが足の裏に伝わる。

「あなた、絵描きなの?」

 襖が開かれた12畳ほどの和室に、まだ何も描かれていないキャンバスがあった。たくさんあるうちのひとつをアトリエにしているのだろうか。その和室だけやけにたくさん画材が置いてある。うっすらペンキのような匂いがして、頭が少しくらっとした。

「叔父さん一家がいろいろとかじっていたんだ。俺は両親とあまり折り合いが良くなくて、いつもここで絵のこととか、外国の話とか聞いていたよ」

 こっちだよ、と手を引かれて、私はアトリエ(と呼ぶことにした)の隣の和室に案内された。こちらは6畳ほどの和室で、日の光がいっぱいに満ちていた。埃っぽくなくて、清潔で、丁寧に扱われていたのがわかった。

「ここが叔母さんの部屋だったんだ。部屋はここを使って。押入れの中に布団がある。ちゃんと洗って、日に干したから」

「なんだか私を迎えることが決まっていたみたい」

「あんたがここに来たとき、この部屋がいいなって思ったんだ。叔母さんは綺麗好きだったから、台所と浴槽、この部屋だけはいつもピカピカだった」

「廊下は?」

「広すぎて腰が痛くなっちゃうわって言っていたよ」

 

 持ってきた数少ない荷物を片付けてから、カーテンで窓を閉めた。もともとあったカーテンは赤みのある茶色で、つるりとした感触だった。電気は付けず、畳の上でごろりと寝転がる。なにか簡単なものを作ってくると言った淡島は、台所の方へ行き、何やらかちゃかちゃと音が聴こえてくる。人がいる生活なんて久しぶりなので、ため息が出た。なんだか落ち着かない。だけど、不安な感じではなくて、そわそわするみたいな。

 でも、健吾はここにいない。

 私はいったい、どうしてここにいるんだろう。

 一度そういうスイッチが入ると、波のように今までの思い出がぶわっと押し寄せてきて、私を簡単に引き戻す。今は考えられない。淡島がどういう人間なのか、自分がこれからどうすればいいのか。

「ここを居場所にしてくれていいから」

 淡島はそう言ってくれた。

 居場所なんて健吾の胸の中だけだと決めていたのに、それを他の男に言われることがたまらなく悲しい。その言葉は健吾から聞きたかった。彼と一緒に居場所を築きあげたかった。一緒に歩んでいきたい未来があった。

どうして私を置いて逝ってしまったんだろう。彼に聞きたいのはそれだけだ。私はまだ、彼のお墓参りに行っていない。そうすることで、どこかで否定している。まだ、生きているんだと思っていたいから。いつまで抗っているのか自分でもバカみたいだと感じるけど、今はバカでいたい。バカだから、こんなところまでついてきちゃうんだ。バカな女だから。