創作 「心のすきま」③

 

 

 その男は、とつぜん、私の目の前に現れた。

 

 貯金もそろそろ底をつきそうだったので、ガス会社だの電力会社だの面倒くさい数々の解約をし、大家さんにも連絡をしてアパートを出ていくことを話し、行くところも目的もないので、実家に戻るという苦渋の決断をし、美也子にもその旨を伝えたころだったと思う。

 家電や衣類などを通販で売ったり、いらないものを捨てたり、掃除をしたりと、道端の隅に生える雑草のような存在の私にとって、一気に押し寄せてきたやるべきことに目をまわしかけたが、美也子が手伝ってくれて、なんとか片付いた。

 両親もそっちのほうが安心する、健吾くんのことは悪かったと言って、電話越しに涙声で言っていて、ある意味これが親孝行なのかなとも……思う。いろいろ納得できないことはあるけど、それはもう、取り戻せない、どうにもならないことだから。健吾の死は、避けられないことだったのだから。

 それならいっそ、私も一緒に連れてけよ、ばーか!

 と、半ば怒りまかせで身ひとつで田舎に引っ込もうとしていたときだった。

 

 淡島が、現れた。

 あわしま。アワシマ。淡島。

 この男がそう名乗ったのだけど、私はこの男をまったく知らないのだ。

 長身で、目が切れ長で、ほっそりしている。伸びた髪を後ろで無造作にひとつにくくっていた。ティーシャツにジーパン。今どき珍しい、下駄。

 ソファも売ってしまったので、フローリングにじかに座ってもらったのだが、いまいちこの男がなんの目的で私に会いにきたのかわからず、睨むように観察してしまう。

 淡島は、「本当に出ていくんだ、ここ」と言った。それだけで妙に親近感が湧いてしまい、男の前で貧相な体つきや表情をしている自分が急に恥ずかしくなった。

「実家に帰るの?」

「え?あ、はい……戻るつもりです」

「嫌じゃないの?」

「でも、しょうがないし……」

 まるで私のことをわかったふうに質問してくるけど、この人はいったい何者なのだ。

 あなたは、私の、なんなんですか。

 ──これでは、どこか関係を匂わせるようになってしまうな。なにしろ「どちらさまですか」と訊いたときに「淡島だよ」と親しく答えられ、そんな知り合いいたっけと思い出しながら扉を開けたら、ずかずか入り込んできたのだ。

 淡島……淡島……うーん、淡島。

「俺にひとつ提案があるんだよ」

 淡島は淡々と言う。

 私はなぜか身を乗り出して彼の言葉を待った。

「俺と、一緒に住まない?」

 ぽたっと、蛇口から水の落ちる音が聞こえた。しっかり閉めないと、栓がゆるいから、水が、こぼれちゃうのだ。ほら、ぽた、ぽたって。

「いや、無理……でしょう。私、だって、あなたなんか知らないし」

「うん。あの、俺、美也子いるでしょう。美也子は知ってるでしょう」

「友だちですけど」

「イトコなんだよ。あいつの」

「イトコ……」

 今まで美也子に淡島というイトコがいるという話なんて、聞いたことがない。ああ、でも美也子の父親の両親が離婚したというのは昔に聞いた。だから……そっちの親戚なのか?

 でも美也子がこの男をこちらに寄こすようなことをするだろうか。

「美也子に、確認とってもいいですか?」

「ああ、いいよ」

 携帯で美也子の番号にかける。すぐつながった。遠くで子どもの声もする。

「もしもし。どうしたの」

「あの……淡島っていう人、知ってる?」

「知ってるけど、どうして」

「一緒に住もうって言われているんだけど。美也子のイトコって言ってるの。本当?」

「ああ。本当よ」

 すんなり認められた。

「あなたのこと、少し話していたの。そうしたら、なんだか会ってみたいってなって、住所だけは教えていたのよ。勝手にごめんなさいね。でも、まさか、一緒に住むとか言い出すなんて、ばっかねぇ、あの子も」

 呆れている口調だった。

「私、困るよ」

「断らなかったの?」

「どう返事をしていいか、わからないのよ」

「実家に戻りたくないなら、イエスって言えばいいじゃない。私のイトコだから、ちゃんとしているし、無理に手とか出さないわよ。真面目な子だから。そこだけは、ちゃんと断言してあげる」

 心臓がドクドクしてきた。変に興奮すると、動悸がするのだ。

「ゆだねてみれば?私は、淡島とあなたは似ていると思うの」

「でも、とつぜん来るような人なんて」

 本人を目の前にしているのに、そう言わずにいられなかった。

 電話向こうでクスクスと美也子の笑い声が聞こえる。

「そうね、確かに、とつぜんすぎるわね」

 なんだ、それ。

 私のこれからの人生を、この見知らぬ男に託せと言うの?そんな無責任なことを美也子が言うなんて信じられなかった。

「でも、とつぜんの波に乗っかってみてもいいじゃない?」

 そこで電話は切れた。

 私は恐る恐る目の前の男をもう一度よく見た。明らかに私より年下で、何を考えているのか読めそうにもない、無表情の男を。なのにひどく魅力的な、この男を。

「柊花」

 名前を、呼ばれた。

 やめてほしい。それだけで、涙が流れる。

「俺があんたを助けるから」