創作 「心のすきま」②

 キッチンを借りてもいいか、と美也子が訊くので、承諾した。持ってきたビニール袋から豚肉やゴボウ、ニンジンなどの野菜を取り出し、私の冷蔵庫を開けて「うわ、すっからかんね」と言いながら、味噌を溶いた。手際よく豚汁を作っている美也子の横顔を眺めながら、母親の顔になっていることを再確認した。

「ちょっとは栄養のあるもの食べなさいよ」

「お母さんみたいね」

「一児のママですから」

 湯気のたつお椀を渡される。味噌のあまい匂いがした。体重計に乗ると、2か月まえから7キロ痩せてしまった。病院の食事は不味くて、退院しても料理をする気力がなかった。実家に戻れという両親には、恋人の死を伝えてもらえなかった憤りだけがある。意地でも帰りたくなかった。

 豚汁を一口飲む。味はよくわからないけど、お腹のなかが温かくなった。これからどうしようか。食べ物を胃に入れたので、そんな漠然とした不安が襲う。ぼーっとしていれば、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなるので、未来のことなど考える必要がなかったのだ。

「これからどうなっちゃうのかな」

 思っていることをそのまま口にしてみる。

「これからのことを考えるのは、前を向き始めている証拠よ」

「答えになってないじゃない」

「あなたの人生だから、簡単に答えられないわよ」

 少し困ったように美也子は微笑む。

 最近、私は人を困らせることばかり質問しているように思う。べつに困らせたいわけではないし、本当に答えを求めているわけでもない。言葉にしなければ、不安なのだ。自分のなかで溜め込んだものが、爆発しないように。

「素敵なことが起こるといいけど」

 今の私にとって意味のない言葉を美也子は吐く。

 素敵なこと。

 そんなもの、一生起こるはずがない。私は、落ちるところまで落ちているのだ。

「なら、そこから這い上がるしかないわ」

 豚汁のおかわりをする。美味しい。

「それはあなた次第になるけど」

 

 

 時間は流れるし、貯金もいつかは尽きる。無職が家賃や生活費をずっと払っていけるわけがない。だけど実家に戻ることは、なんだか、躊躇われた。本当に生死の危機にならないかぎり、戻れないと思った。愛するあの人の死を隠していた家族を、恨まないことなどできない。あまえたい気持ちもあるけど、私の心のなにかがそれを拒む。勝ち負けの問題ではないけど、なんだか、心が折れそうなのだ。この年で、なにもかも失って、実家に迷惑をかけることが、なんだか世間的に許されない気がする。

 そろそろ動き出さないと、自分がなんだか誰にも必要とされていないんじゃないかと思う。でも、一番私を必要としてくれた健吾は、もういない。その事実が苦しくて、美也子が帰ってから、鍋の中の豚汁をすべて捨てた。美味しかったよ、ありがとうと思いながら。

 布団に横になって、丸くなる。明日が来る。明日も、生きなきゃいけない。健吾のいない日々を。