創作 「心のすきま」①

 目が覚めると、とっくにお昼は過ぎていた。今日、何曜日だったっけ。仕事を無断で休んじゃった、と一瞬焦燥感で胸が締め付けられた。でも、一週間前に仕事を辞めたことを思い出して、パリッと硬直していた体が安堵してふにゃふにゃになっていった。目は開いているけど、顔を洗うとか、歯を磨くとか、そういう動作をするのに時間がかかる。普通の人間よりも私の時間はゆっくりダラダラと流れていくのだ。

 布団の上で天井を見て過ごすのも意外に面白い。うちの天井ってこんな色だったのね。築12年のアパートに一人暮らしを始めて、かれこれ6年になる。不便を感じていないし、新しい環境を求めていないので、引っ越しは今まで考えたことがなかった。こうしてまじまじ天井を見つめるのも仕事を辞めたおかげってわけだ。あ、あそこに染みがある。

 飽きたら今度はテーブルの上に並べられたお酒の空き缶と、化粧品と、雑誌を眺める。生活感溢れるというより、ただ小汚い、28歳の女の部屋だった。……28歳になるのか、私。あっというまに三十路が迫っている。それなのに、無職で、恋人もなしって。考えれば考えるほど現実は恐ろしい。だから逃げ出したかったのに。

 農家をやっている田舎の両親から、何件も着信が入っていることを、見て見ぬふりしている。大学を卒業して、こっちの小児科の事務で働きだしてから、なかなか帰省できなかった。仕事を辞めたんだということを話すと、「あなたそれでは心配だわ」と、昔から変わらない電話越しからの母の声に泣きそうになった。

 考えるのはやめよう。こんな時間に、女ひとりが泣いたって惨めなだけだ。

 のろのろと起き上がり、ティーシャツを脱いで、風呂場へ向かう。換気扇をまわしていなかったので、湿った匂いが立ち込めて吐きそうになった。

 

 

 美也子がいきなり家に来てもいいかと言うので、いいよと答えた。

 彼女は大学時代の友人で、一番仲が良かった。当時は恋人がいながらも他の男とホテルに行くような子だったけど、今は落ち着いて、結婚もして子どももいる。サバサバしていて潔くて自分の考えを持っている美也子が、私は好きだ。

 美也子は、一時間後にうちにやってきた。

 散らかっている私の部屋を見て「ひどいね」と言って苦笑する。そして「また痩せた?」と、私の頬を撫でた。28歳にもなって、女友達に触れられただけで涙が出そうになる。来てくれてありがとうと伝えると、美也子はなにも言わず、私を見つめた。

 

 

 大型トラックとの事故に遭ったのは、二か月前だった。ドライバーの居眠り運転が原因だった。私たちが乗っていた普通車は大破し、運転していた恋人の健吾は即死だった。ドライバーは三日後に亡くなった。

 意識を失っていた私が目を覚ましたのは、事故の一週間後だった。

 遠い田舎から両親と妹が来ていて、みんな泣いていた。包帯だらけの自分の体が重くて、声がぜんぜん出なかった。しばらく、健吾の死は私に伝えられなかった。ショックを受けるからと、両親が配慮してくれたのだろう。だから、私は、彼のお葬式に行けなかった。もちろんはっきり「生きている」と言われたわけじゃない。だけど「今はおまえ、自分の体を心配しなさい」と、父から説得されたのだ。健吾のことが気になったけど、きっと生きていると思っていた。見舞いに来られないのは、私よりも状態が悪いからだと。早く回復して、私が彼を支えようと。

 即死だとは、思わなかった。あんなに大きな事故だと思わなかった。

 美也子は泣いていた。病室でパニックになる私を押さえつける、看護師たちの手。それらをどういう気持ちで眺めていたんだろう。「どうして私だけ」と、何度も叫んでいた。誰に?誰にむかっての咆哮だったのか。

 

 

「休むってことは大事なのよ」

 私の部屋を片付けながら、美也子が言う。

「でも、こんなところに引きこもっていたら、病気になっちゃうわ」

 もうすでに、私は病気なのではないだろうか。美也子にそのまま尋ねると、彼女は眉間にシワを寄せて「確かに塞ぎこんではいるけれど。当然のことよ」と言った。当然のこと。恋人を失った人間なら、当然のこと。

 私生活が欠落しだした今、こうして外の人間と話すことに違和感を覚えるようになった。彼女の時間と、私の時間は、まるで違う。同じだけ流れているはずなのに、どうして。