しとしと落ちる

創作、雑多、日記

最近、子どもみたいに泣いてしまう

 澄んだ空気を肺一杯に吸い込むと、寿命が延びた気がする。チーズパンを夜食に頬張り、それでも減少の一過を辿る体重は、私の期待に応えてくれない。たぶん痩せることに対しての焦りは偽物で、本心ではこうなることを望んでいるのだと思う。食べることも眠ることも苦手で、生きるのが苦しいけれど、誰しもが感じる当たり前のことを今さら悲観なんてしないから。

 最近、子どもみたいに泣いてしまう。

 実家暮らしのときや数年前だったら、濁流のように制御不能な恐ろしい感情を殺そうと、歯の形に皮膚が裂けるほど左手を噛んだ。涙を流すと抑えられなくて息が吸えず、頻繁に過呼吸を起こした。簡単に泣けない、泣こうものなら溜め込んだ淀みが一気に溢れて、自分を構築するありとあらゆるものが破壊されそうだった。

 恐れず泣いてもいいと気づくのに、身体が覚えるのに何年かかったか。

 

 昨夜、すごくどうでもいいことで容易く涙が出た。恋人が何度も謝り、それでも抑えられず、けれど泣いたら別の何かが彼を攻撃しそうで、シャワーで冷水を浴びながらひたすら頭を冷やした。やり過ごせばいいのだから、なかったことにすればいいのだから。

 部屋に戻り目が合うと、恋人が「おいで」と両手を広げていた。そのとき、私がどれほど安心したかきっと彼は知らないだろう。受け止められることがこれほど心地いい、なんて。抱きしめられるあいだ、声をあげて泣いた。わあわあと恋人の服に涙の跡ができて、頬もぐちゃぐちゃで、それでも頬擦りがやめられなかった。

 

「なんか、ちっさい子みてえー」

 

 わしわしと乾かしたばかりの髪を撫でられる。私、こんなに愛されたことあったっけなーと、一瞬、母の後ろ姿が浮かんだ。一度もこちらを振り向かず、加害的で被害的な妄想を現実だと信じて疑わないあの人の、焦点の合わないやりとりとか、視線とか、想いとか。こっちを見てほしい人に見てもらえなかった、虚無感とか。そんなのすべてがどうでもよくなる抱擁だった。

 眠るとき、昨日の自分とサヨナラをするとき、明日もどうか笑っていられますようにと、ひとつお願いをして目を閉じた。

  そこに海があった。いつもより慎重な運転で車を走らせる。カーブと坂の多い山道で、ほぼ一車線、信号はない、人間とイノシシはいる(イノシシは実際に見たことがないので、いつ瓜坊が畑の作物を求めて走ってくるかわからず、やけにそちらを気にしていた)。墓石や石の彫刻が有名なその町は、海が近くて潮の香りがほのかに漂う。何度か来たことがある。幼なじみが別荘をここに持っていて、小学生の頃は毎年のように連れてきてもらった。あのとき波に流されたスイカのビーチボールは、今どこを旅しているんだろう。

  片手に、甘い色の包装紙で丁寧に包まれた洋菓子を持って、べつに緊張もせず、「はじめまして」と彼の父に挨拶をした。目元が、よく似ていた。柔らかい表情、落ち着く口調、私たちは色んなことを話した。

  日が落ちて、そろそろ帰りますと腰を上げる。家を出て駐車場へ向かう途中、暗くて大きな海を見た。昼間は「ああ、海だ」ということしか思わなかったけれど、なぜか夜の方が存在感があって、揺れる闇に飲み込まれそうになる。ぽつぽつとある街灯、響くカエルの鳴き声、彼の服についたバーベキューの炭火の匂い。何かを忘れかけてしまいそうなほど、その闇は深かった。それは彼も同じだったかもしれない。黙って、二人で海を見ながらタバコを吸った。漂う煙が、二人がここに、この時間に、得体の知れない奇妙な感覚を共有していることを証明してくれそうな気がして。あまり長居すると戻れなくなりそうで、また慎重に山道を走り抜けた。

祖父母を待っているからブログを書く

  年末を迎えて街は賑やかだ。クリスマスとはまた違った類の賑やかさ。ショッピングモールでは多くの人が忙しなく、商品を手に取ってはまた戻し、手に取ってはまた戻し……。華やかな、そして各家庭それぞれの正月を迎えるために、買い物をしている。普段通りに年末を過ごす人も、仲間と大騒ぎをする人も、家族や恋人と楽しく過ごす人も、どうか暖かく満たされた年末であってほしい。

 

  そんな私は今、祖父母の買い物にほぼ強制的についていき、「お惣菜の半額シールが貼られるまでが勝負なの!」とほくそ笑んだ祖母と、本屋で雑誌を眺めている祖父を待っている。店内のベンチに座って、スーパーの電子音めいた曲を延々と聴きながら。時々、祖父がちらっと私の方を向いて、また雑誌へ向き直る。その姿勢はピシッとしていて、何一つ曲がっていない。

 

  祖母は今頃、半額シールが貼られるのを今か今かと待ちわびながら、店内をぐるぐる廻っているのだろう。その背はあまりにも小さくて、被っているニット帽がぶかぶかで小人みたいだ。私は祖母を見つけるのが得意。似たような人を見かけても、絶対に間違わないし、どこにいても「たぶんここにいる」とすぐわかってしまう。だから、街でぐうぜん祖母に会うことが多々ある。

 

  そのとき、初期の認知症の彼女は、一瞬会った孫が誰なのかわからず首をすくめて、少しした後必ず自分の娘の名前を口にする。慌てて、私の名前に言い換えて、恥ずかしそうに笑うのだ。

 

  玄関を開けて鍵穴に鍵を挿しっぱなしにすることが増えた。メガネを置いた場所がわからなくなった。ほんの少しまで考えていたことが思い出せない。そんな小さいことのひとつひとつが積み重なって、なんだか本人もいじらしそうで、見ていて切なくなる。

 

  老いるということは、赤ちゃんに戻ることだ。

 

  世の中のことを少しずつ忘れていって、まっさらの状態に戻る。歩けなくなって、自力で食べられなくなって、言葉も発しなくなり、小さくなる。

  優しい彼女が優しいままの赤ちゃんになりますように。

 

  …半額セールになったので、私も行こう。